《 ルカによる福音書 1章26~38節 》
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。。
2000年前のユダヤでは、結婚は家族が決めました。婚約式は女性の家で行われ、契約書のようなものを作り正式に婚約します。婚約から結婚まで1年ほどかかり、男性はその間に新居を準備しました。当然、親も若い二人に協力します。女性は大体12歳から13歳ぐらいには結婚相手を決めました。男性は生活力が必要なので18歳ぐらいと言われます。婚約は結婚と同じと考えられ、いいなずけのマリアも、ヨセフと結婚していると見做されました。結婚式を挙げる前ですが、ユダヤ人にとって婚約は真実な約束なので、婚約者同士をすでに夫婦と呼ぶことができ、その解消には離縁状が必要でした。
ダビデ家のヨセフと婚約したマリアに、天使ガブリエルが訪れました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」の言葉にマリアは戸惑い、この挨拶は何のことかと考え込みました。ヨセフと婚約しているめでたさはあるのですが、その他おめでとうと言われることは不思議でした。親の決定による婚約で、しかもナザレの村の小さな存在であった女性に、天使の挨拶は理解できなかったのでしょう。しかしマリアは、拒絶せず天使の言葉を受け入れました。天使は恐れるなと言って、三つのことを告げました。一つ目は、マリアが男子を産むということ。二つ目は、その子は神の子であるということ。そして三つ目は、その子はダビデの子としてメシアの職務を果たすのだということです。
そこでマリアは天使に問います。「どのようにして、そのようなことがあるのでしょうか」。起こるのはわかるが、それはどのようにして起こるのかと質問します。そんなことはあり得ないとの疑念ではなく、「わたしは男の人を知らないので、どのようにして起こるのですか」とマリアは聞きます。マリアは信じているのです。主は疑い深かったり、否定する女性を選びませんでした。ただ信じる人を信仰の故に選ばれたのです。
天使がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言いますが、「今この時、身ごもっているおとめが男の子を産む」という言い方です。マリアは同棲していないにしても1年のうちに結婚するので、天使ガブリエルが「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう」と言っても、もう2,3か月で結婚し子どもできたとしても驚くことはないのです。しかし、今この時身ごもりが始まるのでは大変なのです。まだ夫との同棲に入っていないのに今身ごもるとはどのように起こるのかと問います。その答えは『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない』です。ここで、包むという表現は、上に幕を張ることを意味し、聖霊があなたに降り、マリアの上に天幕を張るということです。つまり聖霊がマリアに臨在するという意味で、だから生まれる子は聖なる者、神の子となるのです。産まれるまでの身ごもりの間もずっと聖霊がマリアに臨み、だから生まれるのは聖なる者だ、神の子であるというのです。普通は胎内で母親から遺伝を受け、罪や汚れや弱さを受けて罪人として産まれますが、聖霊が身ごもりから出産まで全部臨在しているので、マリアから産まれるイエス様の場合は聖いのです。
そこでマリアは言いました。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』。主のはしためというのは主の女奴隷という表現で、身分の低い主のはしためですから、「お言葉どおり、この身に成りますように」は、「あなたの言葉がわが身に成るように」という言い方です。このように神様はマリアを用いることを語ったのです。これからの生涯を神様の御計画に用いることを言っています。それが神様から恵みをいただいたことなのです。マリアは主の女奴隷として、お言葉どおり信じ身を献げる者となりました。
一方では、実際のところマリアにとって、天使のお告げは良い知らせではありませんでした。ユダヤ人の律法では結婚前に身ごもった女性は石打ち刑で殺されます。命の危機が迫ることでもあるのです。そのような状況の中での「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉は素晴らしい信仰を含んでいます。ご計画なら受け入れると神様への従順を示しました。主に対する無限の信頼を持ち、信仰のゆえにマリアは神様の子の母として選ばれました。イエス様がこの世に来られ、神様の救いが実現するためには、マリアが必要だったのです。
天使の言葉に戸惑いながらも、マリアは応諾しました。彼女はヨセフとの楽しみだった未来への希望を手放し、神様からの大きな希望に身を委ねたのです。なぜなら、彼女は神様の救いの約束の実現を信じたからです。自分が身ごもる子どもを通して、主なる神様がすべての人に救いをもたらすことを希望したのです。このマリアの信仰告白により、イエス・キリストがこの世界に降ります。
私たち一人ひとりはこの世界に不可欠な存在として神様によって創られ、マリアと同様に神様からの役割が与えられています。御子イエス様によってもたらされた救いを、この世に伝える役割です。一人ひとりがその役割に応じるところに、イエス様は来られるのです。マリアが自らを明け渡してイエス様を迎えたように、私たちも自らを開き、神様からの役割をこの身に受けたいのです。私たちは、代価を払って買い取られた主の奴隷です。だから、自分の体で神の栄光を現していきたいと思います。
(2023年12月3日 主日礼拝説教要旨)