《 マルコによる福音書 4章30~34節 》
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
若い時に聞いた話で印象に残っているのは、人間は自己愛を持つもので、どんなに努力をしてもそこからは抜けられないというものでした。信仰者として神に従うときも、自己愛を持ちつつ神に向かって歩むという話を聞きました。すなわち人間は神の愛、アガペーの愛を表すことはできず、自己愛をもって人間愛を表すものであるということでした。そのような愛しか表すことのできない人間は、教えに対し、自分でやりたければやればよいし、やりたくなければやらなければよいというスタンスのものです。このことから私自身は、自分のやってきた教会に仕えることや福祉関係の仕事のことは、自己愛の表現なのかと思ったりもしました。つまり良いことをしている人、素晴らしいことをしている人と認められる承認欲求によって動いているのではないかと自問をしました。これらのことを考える時、視点が大切であることを示されました。自分の視点で物を見るのか、神様の視点で見るのかです。
今日の聖書に出てくる「からし種」は、アブラナ科の植物クロガラシの種子です。からし種は、他に比べ非常に小さい種粒ですが、地面に蒔かれると非常に大きく生長し、2~3mの木になります。大は小を兼ねると言われるように、経験的に能力や持ち物において私たちは、小さいこと少ないことを劣っていると感じて、卑下したり落胆しがちになります。しかしイエス様は、子どもが持っていたわずか2匹の魚と5つのパンを用いて、5千人もの人を養いました。神の国の基礎は、小さいもの、少ないもの、弱く見えるものです。神の国では人間の業はなく、神様の御業がなされるので、驚くべきことが起こります。だから、考えなければならないのは、小さい人間が努力して大きくなることにではなく、からし種は蒔かれると、神様によって大きくなると述べられていることです。そこでは、小さいものが大きくなることによって、劣っていると感じていたことが挽回し、卑下や落胆がなくなり喜びが起こるのではなく、種が大きくなるということは質的な転換が起こるということなのです。一粒のからしの種の小ささからは想像ができないような大きなこと、質的転換が与えられます。その変化が神の国に似て、突然起こります。2匹の魚と5つのパンで5千人を養われた話では、イエス様に自分の手で人々に食事を与えなさいと言われながら、弟子たちがそれをできずにいると、わずかなパンと魚でイエス様御自身が素晴らしい奇跡を起こされました。この世の力や努力では当然できないことも、成し遂げられるのです。
一粒のからし種とは神様の御言葉です。特に愛の御言葉です。信仰者はこの世の中で、力の支配に順応して神様の御言葉なしでも十分やっていけると考えたり、普段は忘れて生活したりしがちです。つまり教会外では、この世の原理に身を任せているといえます。そのような私たちの生活の場において、私たちの心に神様の御言葉は蒔かれます。家庭や学校や会社などの生活の場に、直接蒔かれるのです。力と矛盾に満ちている世の中では、混乱に身を任せているものですが、そこに蒔かれた種は、神様の御手によって何十倍、何百倍に育つのです。力の世界では起こりえない神の愛の奇跡が起きるのです。私たち人間が、この世で辛酸をなめながら努力を重ね育てた結果うまれるのではなく、そこに神様が働いてくださるのですから、私たちは安心してお任せすることができます。それは神様が育んでくださることへの確信と信頼です。この世では打ち負かされているようでも、神様がお働きになると、世に勝つ信仰を与えてくださいます。種を蒔き必ず多くの実がなり収穫するとの確信を持っていきたいと思います。
神様の御言葉が人間に蒔かれると大きく茂りますが、神様の御言葉、すなわち神様の愛の御言葉が私たちの心に蒔かれて計り知れないほどに育ちます。神様は私たちの状況をご存じの上で、私たちを愛しているがゆえに、そしてこれからもずっと愛するがゆえに愛の御言葉を送り続けてくださいます。私たちはこの世を恐れることなく、蒔かれた愛が私たち自身の中で大きく育つことを信じて、信仰生活を送っていきましょう。
愛の言葉が心に蒔かれて育つとどうなるでしょう。神様は愛の言葉を与え続けるので、神の愛が人間に浸透して、愛の人へと造り変えてくださいます。そうすると、人は神様の愛に応えるべく、自分を愛する以上に他者を愛するものへとなっていくのです。これは神様のなさる事柄で、努力で得られるものではありません。人間は自己愛を持つものなので、どんなに努力をしてもそこからは抜けられないし、信仰者として神に従うときも、自己愛を持ちつつ神に向かって歩むといわれたことをもう一度考えてみましょう。神の愛が注がれ育つという神様の視点から考えるとき、決して人は自己中心の愛しか持ちえないのではなく、神様に育まれた真実の愛があることを認識し、それを他者に示すようになるのです。それは最終的には、自己に優って他者の命を大切にすることです。自己愛では到底できない愛を抱いて、信仰生活を送ることになります。
(2023年9月10日 主日礼拝説教要旨)