《 マルコによる福音書 16章1~20節 》
イエス様の復活はキリスト教の中心で、十字架のみを伝えることは十分ではありません。主の復活が連綿と信じられてきたからこそ、私たちは今、この信仰を受け取ることができるのです。ところが、「復活はわからない」と言われる方がいます。復活がわからないということは、当時もあったことでしょう。復活のイエス様と直接会っていない人や、後から復活を聞いた人にとって疑問は当然です。特に、マルコ福音書の復活の記事を聞くだけの人は、そう思ったかもしれません。16章8節までで終わっている復活の意図は、実際、誰も復活のイエス様に出会ったと記されていないので、別にあると考えられます。なぜなら、16章9節以降で復活顕現の説明がありますが、これらの記述は、後からマルコ福音書に付加されたものです。それでは、イエス様の復活はどうであったか見ますと、墓が空であったこと、白い衣を着た若者による復活の告知があったことです。本来、ここで終わっていたマルコ福音書を補い、16章9節以降では「結び」として、「マグダラのマリアへの顕現」、「二人の弟子への顕現」、最後に「十一人の弟子への顕現」が、復活の主の有り様として付加されています。
16章8節までの復活の証人は、マグダラのマリアで、マグダラ出身でイエス様に7つの悪霊を追い出してもらった人です。次にヤコブの母マリアは、2人の息子をイエス様に捧げた人です。さらにサロメはゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母です。この女性たちが、イエス様の体に香料を塗るために出かけました。埋葬されて3日もたってイエス様に香料を塗ることは、当時の常識を超えるものでしたが、十字架上のイエス様を最後まで見届けた女性達にとっては最後の奉仕で、それは普段からイエス様を慕っていた女性達にとって当然のことでした。しかし、彼女たちがイエス様に香油を塗りにきたのに、墓の前の大きな石は取り除けてあり、墓の中に白い衣を着た若者がいて、イエス様の復活を告げられ怖くなりました。この石は私たちの罪の大きな石を表していますが、それは取り除かれていました。怖くなるのは、罪人が生きた方を死人の中に捜すからです。復活を理解することを難しくしているのは、イエス様が生きておられるということがわからないからです。イエス様が死んですべてが終わったと思ったときに、神様が介入してくださり、イエス様はよみがえり歴史が動いたのです。そして復活の主に出会うには、白い衣を着た若者が語った言葉を信じてガリラヤに行くことです。私たちがイエス様と共に活動したガリラヤで出会えるのです。
16章9節以降の「結び」では、第一にマグダラのマリアへの言及があります。マリアは七つの悪霊を追い出していただいた女性ですが、そのマリアがイエス様に出会ったという復活証言を、弟子たちは信じませんでした。七つの悪霊を抱いていた時の印象が強く、証言を聞いた信仰者が以前の行為にとらわれ先入観を持ち、イエス様が生きておられることと彼女に顕われたこと、マリアが主の復活によって豊かにされたことを見聞きしても、信じようとしなかったのです。マリアはイエス様に再び出会い、癒していただいたことの喜びが溢れたことでしょう。しかし他の弟子たちは、イエス様に出会い喜んでいるマリアを見ても、そのことを共に考え喜ぶことができませんでした。
第二に、二人の弟子へイエス様は異なった姿で顕れました。そこで彼らは他の人々の所へ行って告げ知らせましたが、彼らは信じませんでした。この箇所では、彼らがイエス様の姿が異なっていたことを理解できませんでした。実際私たちも、異なった姿で現れたと聞いたなら、戸惑うかもしれません。別の姿であるということが理解できないかもしれません。当時、他の弟子たちも、イエス様が前に立って別の姿であったとの証言を理解できませんでした。そこでは二人の弟子が、イエス様の真実の姿に出会ったのであります。それではどのような出会いがあったのでしょうか。別の姿で出会っても、それがイエス様だと解かるということは、弟子とイエス様の間に、求め合うものがなければならないでしょう。二人の弟子の方に、復活のイエス様に会いたいという願望がなければ、目が開かれたとは思えません。イエス様の一方的な弟子への思いだけでは、真実の出会いにはならなかったことでしょう。
この二つの証言を通して信じられなかった十一弟子に、イエス様が完全にわかる形で顕現され、弟子たちの不信仰を叱ったのです。なぜでしょうか。復活を信じるうえで大切なことが抜け落ちているからです。ここで、ヨハネ福音書のペトロへの復活場面を思い出してみましょう。イエス様はペトロに、「わたしを愛しているか」と三度問いかけるのです。ペトロは、「わたしが愛していることは、主がご存じです」と答えます。ここで三度イエス様が問いかけているのは、ペトロのイエス様に対する思いを問いかけているのです。イエス様に従ったが、十字架の場面では従いきれなかったペトロが、復活のイエス様に出会って、はじめに付き従っていた頃から今に至るまで、同じように愛しているかと問われたのです。ペトロは逡巡して答えています。復活のイエス様に出会うということは、十字架と復活のイエス様に出会ったとき、心からイエス様を愛しているということが必要だったのだと思います。それがあれば、マグダラのマリアや二人の弟子に復活されたことを聞いても、イエス様を愛し、イエス様からも愛されている喜びが湧き上がってくるはずです。
しかし、付加された復活顕現は、本来のマルコ福音書には含まれていません。その場合、マルコ福音書の復活は何を意味しているのでしょうか。
墓の中の白い長い衣を着た若者は、イエス様にガリラヤでお目にかかれると告げました。イエス様が行かれた先が、神殿のある都・エルサレムではなく、ガリラヤであったことには、大きな意味があると思います。ガリラヤは、イエス様が宣教を始められた場所、貧しい人々が数多く暮らす生活の場です。だから復活のイエス様は、「私たちのガリラヤ」、私たちの日々の生活の場で共にいてくださる、ということを強く告げているのです。「インマヌエル、神われらと共に」であります。まさしく「復活を信じる信仰」です。
私たちの働きの場で、復活のイエス様は共にいてくださると教えてくださっています。イエス様は私たちの罪のため十字架におつきになり、そしていまその罪の石が取り除けられました。イエス様の復活は神様の御業です。死では終わらないイエス様に「私たちのガリラヤ」で出会うこと、それが復活の出来事です。主は復活なさって、私たちをガリラヤに招いておられます。いつも共にいてくださると約束する主に出会い、「心から愛しています」と述べ、救いに与かることを願います。
(2023年4月9日 イースター礼拝・説教要旨)