《 マタイによる福音書 13章51~52節 》
新しい年を迎えました。この年の第一日目を、このように礼拝によって始めることのできる幸いを感謝します。この一年も、神様が私たちをみ言葉によって生かし、導いて下さることを祈ります。
新年になると、何を新しくしますか。まずカレンダーを新しくします。手帳も新しくします。皆さんの家のカレンダーは、日曜日から始まっているでしょうか。中には月曜日から始まって日曜日が最後になっているものもありますが、やはり、日曜日にみ言葉を聞いて一週間を始めるということは大切なことで、私たちにとっては日曜日は初めの日であるわけです。そして、そのような良い習慣によって、その一週間、神様を中心として生活することができるのだと思います。
今日の聖書の箇所には、古いものと新しいものを入れ替える話が書いてあります。最近では、倉(蔵)というものをあまり見ませんけれども、古い町並みのところへ行くと、石造りの立派な倉が家の敷地に建っていて、そこに先祖代々大切なものをしまっていました。そして神様のことを学ぶ人というのは、ちょうど家の倉の中身を古いものから新しいものへと入れ替えるようだと、今日の箇所には書いてあります。つまりこれは、あなたは、何を一番大切なものとしますか、ということを、私たちに聞いている箇所なのです。
今日ここに集まっているみなさんは、神様のことを一番大切なことだと考えて、年の一番初めに礼拝に来られたのだと思います。礼拝、それは神様の言葉を聞くところですね。ある教会では、今年こそは聖書をしっかりと読もうと新年に目標を立てて、こう詠みました。「元旦や、創世記より読み破らん」。聖書の第一ページから始めて、神様のみ言葉をしっかりと読もうという意気込みが「読み破らん」という言葉に込められています。
さて、イエス様のお弟子さんたちも、イエス様から神様の言葉について熱心に聞いていました。イエス様は神様のことを話されて、今日の箇所では、お弟子さんたちに、「これらのことがきちんと分かりましたか。」と尋ねています。実は「これらのこと」というのは、マタイ13章全体のことを指していますが、その中に「種を蒔く人」のたとえが出てきます。みなさんも、その話を聞いたことがあると思いますが、今日は新しい気持ちで、イエス様の語られたたとえ話を聞いてみたいと思います。
ある人が種を蒔くために出て行きました。そして蒔いていると、ある種は道ばたに落ちてしまいました。するとそこはとても堅い道だったので、その種を鳥が見つけて食べてしまいました。また、ある種は石だらけのところに落ちてしまいました。するとゴロゴロとした石のせいで、少し根が出たかと思うと、日照りでたちまち枯れてしまいました。またある種は、茨の間に落ちました。すると茨が伸びてふさいでしまいました。み言葉から芽が出て育とうするのですが、私たちの場合にも「こっちも楽しいよ」「ちょっとくらいいいんじゃない」という声に心奪われる時があり、そうして忙しくしているうちに、お祈りするのも忘れてしまい、神さまのことも忘れてしまうことがあります。けれども、良い土に落ちた種はどうでしょう。その人は、み言葉を聞いて悟る人。三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶと書いてあります。そのようにして、本当に豊かに実を結ぶことを心にしっかり思い描いて忘れないようにしなさい、そして、み言葉受け止められるように、心を良い土のようにいつも柔らかくしていなさいと神様は言われます。
もう少し聖書の言葉を見てみましょう。み言葉を聞いて「悟る人」とはどういうことでしょうか。悟るという言葉は、理解するという意味ですが、もう少し詳しく見ると、この言葉は本来、一つ一つのことをつなぎ合わせて、全体をきちんと把握するという意味なのです。ですから、聖書の中に「悟る」という言葉が出てきたら、それは、一つのことだけを虫眼鏡や顕微鏡で見るようにするのではなくて、むしろ世界地図を広げて見るように全体を見回して、見える一つ一つことをつなぎ合わせて見る、ということなのです。
それは、聖書を読んだ時に、「あぁそうか」と思う、そういう経験だと思います。聖書を読み、そのことが、毎日の生活のことと「結びつき」、あぁそうか、と思う。み言葉を読み、自分が抱えていることと「つながり」、あぁそうだったのかと思う。それが悟る人です。また、ニュースを見ていて世界で起こっていることを知り、そのことについても、み言葉と世の中で起こっていることをつなげて考えなくてはいけないのだと思います。別の言い方をすれば、関心を持つということでしょう。インドで最も貧しい人たちの為に生き、活動したマザー・テレサさんはこう言いました。愛の反対は何でしょうか。愛の反対は、無関心。つまり無視することです。見て見ない振りをすることです。それが愛の反対であると言いました。私たちは、隣人の痛みにも愛を持ち、そしてそのことに対して、聖書はなんと言っているのだろうかとその状況と聖書をつなげて読む。それが、悟る人であり、またみ言葉を聞くものの務めでもあると言うことができると思います。そういう意味で、私たちは周りのことを正しく見るということがとても大切になってきます。
C・S・ルイスという、ナルニア国物語などの児童文学で知られるイギリスの文学者がいますが、その人がこういう内容のことを言いました。神様は、太陽のようなお方です。その方を直接見ることができませんが、その太陽の光のおかげで、私たちは周りのことが見えるようになります。信じる者には、物事を正しく見ることができるようにさせてくださる。そういう意味で、神様は太陽の光のようであると言いました。
私たちの歩む世界は、先行きが分からない世の中ですけれども、私たちは神様のその光によって一人一人の歩みについても、また社会や世界の動きについても、正しく見るということができますように。自分の感覚を頼りにするのではなく、み言葉と照らし合わせ、それらをつなぐようにして全体を見て、悟る人となることができますように。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)
さて、今年は酉年ですけれども、なんでも一年で一番最初に鶏の声を聞いた人はいいことがあるそうで、昨晩から鶏が鳴くのを今か今かと待っていた人もいたそうです。聖書の中にも鶏が鳴く場面があります。そうです。それはイエス様のお弟子さんのぺトロさん。イエス様が捕らえられてユダヤ教の大祭司の家に連れて行かれた時のこと、ペトロは勇気を出してこっそりと後について行き、他の人たちに紛れてたき火にあたりながら中の様子をうかがっていました。そこへ誰かがペトロをイエスの仲間だと言います。すると彼は、「いや、そんな人は知らない。」二度目にも「何を言うんですか。知るわけないでしょう。」そして、三度目にはとうとう大きな声で「いい加減にして下さい。絶対に知らないと言ったら知らない。」すると、そう言い終わらないうちに、突然、鶏が甲高い声で鳴きました。はっとしたと思います。我に返ったように、自分はイエス様の後に従って行きますと約束したのに、三度も知らないと言ってしまった。
思えば私たちの歩みにも、同じようなことがあったかもしれません。必ずしも、口に出して「知らない」と言わなくとも、私たちの行いや言葉というものが、結果的にそのようであることが実際にあると思います。そして鶏の声でなくとも、実際にはっとさせられることがあります。そのような時というのは多くの場合み言葉によって気づかされるのです。ちょうど、あの甲高い鶏の鳴き声のように、上からみ言葉が不意に降ってきたかのように思えることがあると思います。
ずいぶん以前に、ある年の新年礼拝で与えられたみ言葉を思い出しました。それは、詩編46編11節の「力を捨てよ、知れ、わたしは神」というみ言葉です。それが説教の内容だったのか、礼拝の招きの言葉だったのかは覚えていないのですが、それを聞いた時には、頭のすぐ真上から聞こえてきたように思いました。当時私は、新年度から始まる、牧師になるための神学校での新しい歩みを目前にし、自分は果たして大丈夫なのかと、いろいろな意味で心配し、自分を追いつめていました。ちょうどその時に、「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と聞き、自分が背負わなくてもよいのだと、神様が全ての責任をもって持ち運んで下さるということを改めて思い、逆に後押しされるような気持ちになったことを覚えています。また、神様を神様としていなかった自分にも気づかされた時でした。
聖書の中でペトロさんは、その時イエス様の眼差しに気づかされました。鶏が鳴いたその時、主は振り向いて庭にいるペトロを見つめられました。私たちは、常にそのような、主イエスの愛の眼差しを、鶏の鳴き声と共に思い起こすのです。まざまざと自分の弱さを思い知り、主の愛に、もう涙も鼻水も一緒になっているようなペトロ。そのような自分をもイエス様は心に留め、救おうとして下さっているということに彼は気づかされたのです。
私たちも、そのような意味で常に神様に立ち帰るような、鶏の鳴き声のようなみ言葉にたくさん出会いたいと思うのです。それぞれの歩みにおいて、何度失敗しても、つまずいても、常に神様の憐れみに満ちた眼差しの中で許されて、主イエスの後に従い歩みたいと思います。
今日の箇所では、倉の中身を入れ替える人が出てきました。倉というのは、聖書の時代には特に財産をしまっておく大切な場所でした。その人は、その倉を天の国の財産で満たしました。天の国の財産、それは聖書のみ言葉をたくさん蓄えることだと思います。そして、私たちがみ言葉に従い、み言葉を生きる時に、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶと言います。そのようにして私たちの生き方そのものが、実に神様の前に豊かに祝福されることを聖書は伝えています。どうか常に新鮮な気持ちでみ言葉と向きあい、み言葉を生き、この年も良き歩みを為していくことができますように。
(2017年1月1日 教会学校合同新年礼拝・説教要旨)