天とつながる希望~召天者記念礼拝にて

《 マタイによる福音書 26章26~30節 》
 「最後の晩餐」の場面は、古くから教会で大切に語り伝えられてきた聖書の箇所です。そして人々がその話を聞く際には、主イエスがその際に実際に何をされたのかということに集中して聞いたのだと思います。
 朗読された言葉を聞くと、そこには抒情的な部分はなく、主イエスの一連の所作が短く記されていることに気付かされます。そして人々は、簡素と思えるようなその箇所に凝縮された内容について、より広がりを持った意味を礼拝の中で見出し、受け止めてきました。私たちも今日はこの箇所より、信仰にとって必要なことを思いめぐらしつつ共に聞いてみたいと思います。

 最後の晩餐の場所には、食事を準備する者によって食卓が整えてありました。そして主イエスは、まず「パンを取り」とあります。また同じように「杯を取り」とあります。準備した者からすれば、主がそれを受け取ってくださったという喜びがそこにあったことでしょう。考えてみればパンもぶどうも日常のもの。小麦粉も葡萄も時間をかけて育て収穫し、それをさらに食べ物や飲み物とするために手を加え、こしらえ、準備したものです。そこには多くの時間と労働が必要です。つまりそれらは私たちの労働の果実であり、その意味で、それらはこの世における我々の日常と労苦の象徴ともいうことができると思います。それを主イエスは受け入れてくださいました。
 旧約聖書コヘレトの言葉(伝道の書)は、空の空、いっさいは空である、という言葉で有名ですが、そこには「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」(1:3)ということが、人間の側からの視点で書かれています。もし、神様を抜きにして考えるのであれば、この世は何の意味があるのか、また働くことやこの世の営みに何の意味を見出すことができるのか、ということを問うている箇所です。しかし、主イエスが私たちの日々の労苦や労働も受け入れてくださったということには、深い意味があります。私たちは日夜労苦します。日ごとのパンを得るのに汗を流します。しかし、主イエスが私たちの日常の労苦というものに目を留められ、それを受け入れてくださっておられます。
 そのことを今日私たちが聞く時に、特別な意味があるのではないでしょうか。今日は特に召天者のことを心に留めて礼拝を捧げています。既に召されたご家族のことを思う時、そこにはお一人一人の歩まれた証しがあることを思います。そしてそれぞれの歩みを主が顧みられるということを、今日は心に留める日です。お一人お一人は、それぞれ与えられた日々の中で神様を知っていても、あるいは生前知らなかったとしても、精いっぱいそれぞれの歩みを生きられたことと思います。そして、その労苦を主が受け入れられ、顧みられたということを、最後の晩餐における主の行為に見ることができることと思います。
また、主イエスは「重荷を負うている者は、休ませてあげよう。」と言われたことを思い出します(マタイ11:28)。主がパンと葡萄酒を手に取ったように、私たちの重荷をご自分のものとして身に引き受けてくださったということが、今日も私たちに語られていることではないでしょうか。

 次に、主は「讃美の祈り」を天に向かって唱えられました。それは、神への讃美と共に私たちのために執り成しを祈られたと言うこともできます。私たちの歩みを執り成し、さらにそれを祝されました。決して虚しいものに終わることはないと、それを祝福されました。思い出されるのは、主イエスが二匹の魚と五つのパンを祝福された話です。あの時も同じように、それらを少年の手から受け取り、そして天を仰いで祈りを捧げられました。人々の真ん中に立たれて天に呼ばわるように祈られると、最後には余って集めたものが十二の籠がいっぱいになったと記されており、それほどに祝福が十分で、満ちていたということを聖書は告げています。それは上から与えられた祝福です。
 ここには二つの向きがあります。主が上へ向かって祈られたということ。そして、天が開き、上からの祝福が地上に溢れたということ。ちょうど主イエスが洗礼を受けられた時、天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降ったと、福音書には美しい情景として描かれています。主イエスを通して、そのように天と地がつながるということがここに表されているのです。
 本来、天と地というものは交わらないものであることを私たちは知っています。地球上どこへ行っても、天は天であり、地は地であります。また、この地ということを考える時に、私たちはその現実というものをよく知っているのではないでしょうか。日々流れるニュースを目にする時、今日もまたと思うほど悲しい出来事が起こっていることを私たちは思い知らされていることと思います。私たちは「御心が天になるとごく、地にもなさせたまえ」と主の祈りで祈りますけれども、この世の有りようを思えば思うほど、天は天であり、地は地であります。むしろ、天から遠ざかっていくと思えるようなこの世の現実ではないでしょうか。
 旧約聖書にはヤコブのはしごと呼ばれる不思議な場面がでてきます。ヤコブは、ある場所に来た時に石を枕にしていると夢を見ました。すると、そこには天にまで達する階段が延びていて、天使たちが登り下りしているのを見たといいます。ヤコブはそのことに驚き、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」との思いを言葉にし、目が開かれるのです(創世記 28:16)。そして、その場所を「神の家」という意味の「ベテル」と名付けました。そのように、天につながっている場所、それが神の家であるという意味です。ヤコブは日常において、気づかずに過ごしていたけれども、ふとある瞬間、非日常とも言える聖なる場所であることを知り、「主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と思える時があるということを経験したわけです。
 そのことを考える時に、主イエスは、それと同じような場所をこの地上に用意をしてくださったことを思わされます。教会という場所を用意してくださいました。教会とは人の集まりを指すのではなく、神の家という、天とつながる場所について言うことを私たちは聖書から教えられているのだと思います。
 本来、交わることがないようなこの世の現実の中に教会があり、礼拝があります。それは、主イエスが最後の晩餐で示してくださったことと同じことを再び味わうためにあるわけです。主が示してくださったことというのは、「父の国であなたがと共に新たに飲むその日まで」とあるように、天の祝宴についてでありました。私たちは、今まさにその祝宴において、天につながることを許されているということを改めて心に留めたいと思うのです。

 そして最後に主は、パンを裂いて弟子たちに分けられました。分け合う場所には、そこに交わりがあるということを思います。家には食卓というものがありますけれども、最近はあまり団居(まどい)という言葉を聞かなくなりました。核家族が多くなったからでしょうか。集まった家族が丸くなって食卓に着き、そこに団らんがあり、その円が大きくなる喜びもあれば、現に徐々に小さくなっていくという寂しさもあります。しかし、教会というこの場所は、「天の団居」につながる場所です。思い浮かべるお一人お一人が着いておられる天の食卓というものがあり、そこに主イエスはこの地上においても招いておられる。それが教会であり、礼拝であるということができるでしょう。
 そのようなことを思う時、キリスト教には特に交わりの温かさがあるということを深く思わされます。たとえ私たちの歩みには労苦というものがあったとしても、その温かい交わりと平安がそれを包み込んでしまう、そういう不思議な力だと思うのです。そしてその源泉は、天から来ているのだということを、聖書を読むときに改めて知らされるのではないかと思わされます。

 主イエスの最後の晩餐がどのようなものであったかと思いめぐらす時、そこには何よりも主イエスを中心とした、交わりの温かさがあったのではないかと思います。どのような歩みをも心に留めてくださり、執り成しによって祝福し、そして平安と交わりの豊かさへと招き入れてくださる食卓であったことでしょう。
 今日の箇所では、そのようにして満たされた弟子たちが、讃美の歌を歌いその場所を後にしたことが記されています。それは地上の歩みの只中において、天とつながるという経験であったのではないでしょうか。私たちも、日常の歩みというものがそれだけに終わらず、天にある交わりと喜びがあることを心に留めて、与えられた道を歩みたいと思います。 アーメン
(2016年11月6日 召天者記念礼拝・説教要旨)