途上の信仰(大きな流れへの信頼)

《 ホセア書11章1~4節、マタイによる福音書2章14~15節 》
 最近、運動不足解消のために、時々散歩をしているのですが、ある日、公園で自転車に乗る練習をしている親子の姿がありました。低学年くらいの男の子は、少し緊張しながらハンドルを握り、その子のお母さんが、自転車の後ろをしっかり持って走っているという様子でした。男の子は少し調子が上がり、気が付いたら母親が手を放しても乗れていたという瞬間もあり、そういう様子を周囲の人も微笑ましく見ていました。
 きっと、自転車に乗る人は、かつての自分の似たような状況を懐かしく思い出すことができるのではないでしょうか。しかし、教えた側は大変ですので、その苦労をよく覚えていても、子どもとして教えられた時のことというのは、案外忘れてしまっていることが多いのではないだろうかと想像します。
 今日の旧約聖書の箇所、ホセア書11章1-4節には、神様ご自身が、イスラエルの民を幼子のように愛をもって育てられたということが言われています。まず、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(1節)と言われた後に、「歩くことを教えた」(3節)、「愛のきずなで彼らを導き」、「身をかがめて食べさせ」(4節)、と続きます。イスラエルの民は、そのことを忘れたり、気が付かなかったり、あるいは裏切ったりしたのですけれども、神様は見捨てることなく親身になって子育てをされたということが告げられています。実に、神様の私たちに対する教育というのは、私たちが自覚していない場合が多いのかもしれません。
 また、「エフライムの腕を支えて、歩くのを教えたのは、わたしだ」(3節)とあえて言われているのは、彼らがそれを忘れてしまった状態にあるということです。それでもなお、目的地に向かって、「人間の綱、愛のきずなで彼らを導き」(4節)と言われています。「人間の綱」という意味は、人と人を結ぶもの、すなわち優しさを意味すると言われています。神様が、そのようにして、イスラエルの民をわが子としたといいます。
 ホセアの時代を考えると、その時代は、彼の活動の終り頃にイスラエルの北王国が滅亡するという時期でありましたので、状況としては国の半分が滅ぶというとても厳しい時代でした。そのように目の前の時代状況に希望を持てない中で、ホセアは、より長い視野を与えられて活動しています。彼は、目の前の厳しい状況を受け止めつつ、しかし、今見たような神様の愛なる導きというのは、一時のものではなく、より長い視点を持つものであることを知らされていました。その意味では、人間の時間的にも限られた営みとは異なり、はるかに大きな流れの中に、神様の愛なる導きが貫いており、それを見つめるという信仰を示されているのではないかと思います。

 さて、このホセア書の箇所を引用した新約のマタイ福音書には、別の箇所で、軛(くびき)という言葉が印象深く記されています。それは、イエス・キリストの言葉に見られます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)。
 当時の人々は、旧約の時代から二頭の動物を軛でつないで農地を耕させる時に、力の差がある動物をつないではならないという教えを守っていたそうです(申命記22:10)。そうしてしまうと、弱い方が強い方に引きずられるようにして労働を強いられてしまうからです。そしてそのように、主イエスが、人々の苦役をご自分の苦役とされたということは、彼らと同じ強さ、あるいは同じ弱さになって、共に負われるということなのだということに気づかされます。マタイ福音書は、主イエスがそのように荷を共に負ってくださるということが、今日を生きる私たちにおいても成就していると伝えているのだと思います。そのようにして、私たちを訪れてくださるという意味で、主イエスは、今日も私たちを訪ねる旅人なるお方であると言うことができるのかもしれません。
 私たちもまた、目的地を目指した旅としての日々に励みつつ、また、その旅は、お互いの様子に信仰を感じられるような歩みであると言えます。そして、それが主に一貫して支えられているという、あの、自転車の後から親身になって私たちを支えるような導きがあり、またぐらつかないように「しっかり前を向いて」と言われるかのように、はるか先の将来の一点を見据えて示しているお方があるということに信頼し、共に歩んでいきたいと思います。そして私たちが生きる社会や世界が、どうか平和の御心に強く導かれますようにお祈りいたします。

(2022年5月22日 礼拝説教要旨)