《 マルコによる福音書 7章24~30節 》
今年も今頃は、受験シーズンが続いている時期かと思います。特に、コロナ禍で試験を受けたり、新しい環境に踏み出したりしていくのは大変なことであると思い、若い人たちを応援したい気持ちになります。私もかつて、受験や就職活動などの結果が出たときに、「御心であった」「御心でなかった」と一喜一憂したことを思い出します。考えてみると、この、「御心であった」または「御心でなかった」という場合、そこには、神様の御計画というものがあり、そしてそこに委ねる信仰があり、それは、私たちにとっては大切な考え方であると思います。
考えてみると、私自身は、第二次ベビーブームの世代ということもあってか、それに似た考え方が身近にありました。それは、信仰とは関係ないところで、物事に対して、必ず先に正解があるという考え方の傾向であり、その場合は少々息苦しいものでもあります。画一的な世の中の風潮もあり、子どもの頃、学校の遠足の持ち物も、そこに正解があるかのように気にしていたことを考えると、その思考の癖というのは、その後もいろいろな場面に影響しているのではないかと想像しています。そして若い頃は、信仰の事柄においても、“常に正解をつきつける神さま“をイメージしていたかもしれません。
さて、今日の聖書の箇所は、神さまは、また主イエスはどのようなお方であると告げているでしょうか。共に見ていきたいと思います。
マルコによる福音書7章の今日の箇所を見ると、主イエスが遠方のティルス地方に行かれた時のこと、一人の女性と出会われました。この人はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったと記されています(26節)。主イエスとの対話のやり取りのなか、その女性が必死に願い求める姿勢から、何か信仰の温度のようなものが感じられます。
ここでまず不思議に思うのは、主イエスの言葉の中に「小犬」という言葉が飛び出すことです。聖書の時代も、「小犬」は子どもたちと共に戯れる動物として、生活の中で身近な存在でした。しかし、今日の箇所の中で、主イエスの言われた「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」という言葉の中の「小犬」は、異邦人のことを指し、彼らに対する関わりについて消極的な内容を示しています(27節)。そのように言われた時、シリア・フェニキアの女性は、とっさに機知に富んだ答えを返しました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(28節)。そしてこれには、主イエスも脱帽したという状況です。母親としての、その言葉のゆえに、主イエスが動かされることになりました。そして彼女の娘は癒されました。全体として、この女性の願い求めの熱意が注目されているように思います。
この話について、少し調べてみると、社会的な状況から見えてくることがあります。それは、24節に言及されたティルス地方についてです。当時、フェニキアの重要な海岸都市であるティルスでは、富裕層となったギリシア人が、その周辺支配地域から食料を得ていたため、周辺部に住むユダヤ人をはじめ他の人々は、穀物の生産者ではあっても非常に貧しい生活をしていました。社会的には、その境界線において、富と食料を一部の人々が握っていたという現実があり、そのことを主イエスが、ギリシア人であった人に「まず、貧しい子供たちに十分食べさせなければならない」と言われたという状況がありました。このように、背景的なことを知ると、主イエスが指摘された言葉の真意も理解できるように思います。実際、主イエスが貧しい人々のために、公正を追及されたことは、常日頃から貫かれたことだと知らされます。
しかし、今日の箇所で、一度は断ったはずの異邦人の言葉によって、主イエスご自身が動かされるということを、どのように考えたらよいのでしょうか。一つの見方として、実際に、この女性との対話を通して主イエスも変えられたという理解があります。人格的な良い関係とその対話は、お互いが、お互いに対して開かれているものであることを考えると、主イエスも、一人の女性の信仰に出会い、さらに異邦人の切なる願いが、実際に耳に届いたという話として見ることもできます。
聖書を見ると、確かに神さまは、異邦人を用いられ、御業を進められるお方であることを、その内容が告げ知らせています。例えば、いくつかの箇所を見ると、イエス・キリストの系図に出てくるルツは、異邦人であるモアブの女性でしたし(マタイ1:5)、また、モーセがミディアン地方で助けを求めて身を寄せ、その娘を妻としたのは、異国であるミディアンの土地の祭司エトロでした(出エジプト2:16以下、18章)。あるいは、ヨシュアが大切な任務のために二人の斥候を遣わしたとき、斥候たちをかくまったのは、エリコの城壁に住んでいた娼婦ラハブでした(ヨシュア記2章)。他にも挙げることができると思います。それらの異邦人の、無くてはならぬ働きと信仰に助けられて、神さまの大きなご計画が進められていきました。むしろ、そのことを、聖書は隠すことなく積極的に伝えていることが分かります。助けは、思いがけないところからやってくるようです。
少し耳慣れない言葉ですが、「神の生活」という言葉があります。これは、私たちが存在し、日々行動し、そして、何よりも生きて生活しているのと同じように、神さまも、我々と共に生活しておられるということです。そのように共に歩んでおられるということを、私たちに意識させる鍵のような言葉でもあると思います。
そして、そのことを今日の箇所と重ねて思うことは、私たちの生活に関わられる神さまは、何か常に正解を突き付ける機械のような神さまではなく、「神の生活」というように、命ある方として営みを為しておられ、さらには、人間の側に開かれているお方であるということです。そのことの意識が、私たちをより祈る者とし、私たちに、より、生きておられる主と共に歩んでいるという安心感を与えると思います。そして、私たちが自由な歩みの中で、神さまに人格的に交わることが許され、そのように進んで生けることに嬉しさがあると思うのです。また、私たちの教会の歩みもそうであると思います。今日の聖書の箇所は、広い意味でそういうことを指し示しているのではないでしょうか。対話を通して、人の側に開かれている主イエスの姿勢が、私たちにその気づきを改めて与えるようであると思います。
さて、最も初期の教会のことを考えると、当時は、異邦人に対する壁があった訳ですが、それが、やがてユダヤ人もなく、ギリシア人もなく、と壁が取り除かれていきます。そしてこれは、当時の人々からすれば、決してたやすいことではなかったはずですが、福音の真理により変えられていったことが分かります。
そのことを、もう少し私たちの状況の中で考えると、私たちはいろいろな場面で、知らず知らずのうちに内と外を作ってしまうことがあり、そのような時、絶えず聖書の視点を思い出したいと思うのです。今日の箇所では、さらに神さまは、私たちを、むしろそのような境界線に立つことを促しておられるのではないでしょうか。信仰と現実との狭間に立たされ、一見孤独なその場所も、実は、置かれたその場所で与えられた関わり合いの中で他者に開かれてある時に、そこに、思いがけない祝福と出会うことになるということ。そのようにして、神さまは不思議な御業を現してくださるお方であることを信じ、過ごしていきたいと思います。今週も、主の励ましとお支えが豊かにありますようにお祈りいたします。
(2022年1月23日 礼拝説教要旨)