慈しみと感謝(整えられた恵み)

《 ルカによる福音書 2章22~38節 》
 聖書には、神様が「救いを整えてくださる」という言葉があります。ここで「整える」という言葉は、準備をする、備えるという意味ですが、そのようにして、主イエス・キリストが来てくださったことが、私たちのために整えられた出来事であると告げられています。食卓を整える、道を整えるというように、当時は多くの場合、王様であるとか、誰か目上の人のために「準備をする」という場面で使われた言葉だと思います。そう考えると、「万民のために整えてくださった救い」(ルカ2:31)とは、人々が、そしてそこに含まれている私たちも、とても大切に扱われているということを伝えているのだと思います。

 昔、学生であった頃に、私はある先生にお世話になったのですが、その恩師は、指導が非常に厳しいために当時学生たちからたいそう恐れられていました。昔の、言わば恐い監督のような先生であったと思います。ある時、私は用事があって、どうしてもその先生のお宅を訪ねる必要があり、しかも泊めて頂くことに…。そしてその晩、何とその先生が、自分一人のために、布団を敷いてくれたということがありました。目上の人のために誰かが布団を敷くということは、どこにでもあることだと思います。しかし、その先生が、今自分の目の前で、黙々と私のために布団を敷いてくれたのでした。それまで私は、何度となく叱られ、青ざめることも数多くあったのですが、そのこともあり、その時には、何か喉の奥が締め付けられるように込み上げてくるものがありました。誰かに大切に扱われるとはそのようであると、ふとその時のことが思い出されます。
 状況にずいぶん違いがありますけれども、今日の箇所では、シメオンという人が、幼子イエスを両腕で抱きながら「万民のために整えてくださった救い」と言い、神をたたえました。神様が、私たちのために「整えてくださった」という時、そこにある、私たちを大切にしてくださるという思いはいかほどであろうかと、しばし心に留めることができるのではないかと思います。

 またシメオンは、その出来事の際に「僕(しもべ)をやすらかに去らせてくださいます」と言いました。彼は、救い主に会うまでは死ぬことがないという不思議なお告げを受けていました。そのことにつながると思われる言葉として、「御手にわたしの霊をゆだねます」(詩編31:6)という祈りがあります。これは、日ごとに、自らの全存在を神様にあずける、ということを言い表しています。ルカ福音書の中で、実はこの祈りを、主イエスが十字架上で祈られています(ルカ23:46)。そのことからも考えさせられることは、神様を信頼するということが、私たちに最終的に残されている信仰上の務めであり、そのための祈りであるとも言うことができます。
 また、調べてみると、「御手にわたしの霊をゆだねます」という祈りは、ユダヤ教では夕べの祈りなのだそうです。つまり、一日ごとの生活の中で、時が来ると一度、「御手にわたしの霊をゆだねます」とお返しし、そこに平安を得て、そしてそのことによって朝を迎える時にも、それが新しい命であることに気づかされて過ごすことができるのだと思います。これはある意味で、一日ごとにはっきりとしたけじめを与えられることによって、感謝を与えられるという祈りであると言えます。
 ふさわしいたとえであるか分かりませんが、山登りなどで、岩場の斜面をロープをつたって上がる際に、手で握るために、一定の間隔で小さなこぶのように堅く結ばれた結び目があります。それを手の平で探りながら握ることで、滑り止めの働きもします。そのように私たちは、日ごとに、先のこの祈りを祈りながら、神様の御手の確かさを信じ、一足、一足前進することができ、またそのことで、主への信頼を深めていくことができるのではないでしょうか。また、今日は年末の礼拝ですが、今日のように一つの区切りを迎える時にも、私たちは、特にそのような感謝と信頼の思いを、より大切にすることができるのではないかと思います。

 シメオンに続き、アンナも敬虔な人でした。若くして夫に先立たれ、昼も夜も神様に仕えていました。ここでは、新約ではめずらしい女預言者であると言われています。アンナは、幼子イエスのもとに近づきました(ルカ2:38)。ここで「近づく」という元の言葉に注目すると、ルカ福音書では、たとえば同じ章にある羊飼いたちの場面で、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたというところで、「近づき」という言葉が見られます(ルカ2:9)。また、主イエスの復活の場面で、女性たちが、主イエスの遺体が見当たらなかったため、「途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」という箇所で、「そばに現れた」ところが原文では同じ言葉になっています(ルカ24:4)。あるいは、天使が牢屋にいるペトロの脇腹をつついた、という箇所でも、同じ言葉が見られます(使徒言行録12:7)。全てではなくとも、どちらかというと、ルカは天使のような存在が、天的な荘厳さをもって誰かに近寄るという場合に、この言葉を用いて伝えている印象を受けます。そういう中で、今、アンナが主イエスに、そのように「近づいた」ということは、もしかすると、ここでは、ある意味でアンナは、あの天使たちではないにしても、女預言者と呼ばれて神様に尊く用いられ、神様を讃美し、遣わされていったということが言えるのではないかと思います。そしてまた、先のシメオンも、聖霊に満たされて、しかも、主イエスを祝福する立場となって、その重要な役割を担っています。
 これらのことを考える時に、この話は、弱い者を神様が大いに高めて用いられる話であると読むことができるのではないかと思うのです。年齢的なことや気力の面についてもこの箇所から読み取ることができると思いますが、特にアンナは、夫に先立たれたということですから、社会的にも非常に弱い立場に長く置かれていました。きっと誰かから庇護を受けなければ生活できず、社会の中で、常に陰で生きなければいけないような状況であったと思います。しかしルカ福音書は、ここでそのような人を、神様は、言わば天使並みにと言ってよいほどに用いられたと伝えているのではないかと思います。そして、この箇所では、たまたまこういうことが書かれているのであろうと考えて済ませることもできるかもしれませんが、もう少し聖書全体を見渡すと、意外とそれが中心的なメッセージであることに気づかされます。
 たとえば、使徒パウロが記したコリントの信徒への手紙第一の最初の方には、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1:18)とあります。十字架の示している意味というのは、私たちには神の力であることを言います。そして、その後には、神様は「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1:28)、と言い、徹底的に弱い者が、神様の力によって用いられるということを語っています。ですから、私たちが目の前にある十字架を見上げた時に、それが空しいものではなく、私たちはそのようにして実際に力与えられていくものなのだと言います。それゆえに、「誇る者は主を誇れ」と、同じ箇所で言われています(1:31)。

 そういうことを思いながら、私たちは、今日、年末の礼拝を迎え、私たちの歩みを振り返った時に、私たち自身も、そのように用いられてきたということに、思いを馳せる時を与えられているのではないでしょうか。私たちは、教会において、そしてまたそれぞれの生活の場面、場面において、一人一人が神様によって用いられてきたのだと思います。特に、コロナという状況の中で、その波が繰り返される中で、私たちは、それに抗うことのできないという意味で、弱さを経験し、社会生活にもどんよりと重苦しさを長く味わっています。しかしその中において、日常の中で、信仰をもって向き合ってきたことについて、神様は、「私の奉仕をあなたは担ってきた」と、言われているのではないかと思うのです。そして、シメオンやアンナの話を思い出すと、そこに、神様のねぎらいの意味合いが込められているようにも読めるのではないかと思います。二人の信仰の日々に対して、埋もれていたような一つ一つのことが、日の目を見るように、主イエスとの出会いによって光が当てられているように感じられます。そしてまた、弱さの中であっても主に用いられるということが、私たちが思う以上にいかに尊いことであるかということについても、天使的な讃美が背景に聞こえるかのように、喜ばしいこととして伝わってくるように思えます。
 私たちにおいても、歩んで来た日々が主イエスの光に照らされ、主が私たちの歩みをそのように顧みてくださることを心より感謝し、また、御手にゆだねて新しい年を歩み出したいと思います。
 
(2021年12月26日 年末感謝礼拝・説教要旨)