社会の中での祈り

《 使徒言行録 16章11~15節 》
 私たちは、常日頃、社会の中で生活をしていますけれども、社会との関り合いを通して、信仰が深められていくということがあると思います。今日の聖書の箇所も、そのようなことを考えさせられる箇所ではないかと思います。
 礼拝では、使徒言行録の箇所を続けて見てきました。今週も、引き続き与えられた箇所に耳を傾けたいと思います。使徒パウロたちは、さらに先へと宣教の旅を続け、16章に入ると、海を越えて初めてエーゲ海の西側に入って行きます(11節)。そして、マケドニア州の中で中心的な都市の一つであるフィリピにたどり着きました。当時フィリピはローマの植民都市で、ローマとアジアをつなぐ街道沿いに位置し、東西を結ぶ重要な都市でありました。フィリピには、当時、多くのローマの退役軍人が住んでいたことが分かっているそうで、ある調査では住民の大半がローマの市民権を持っていたと言われています。ちょうどパウロが、フィリピの信徒への手紙3章20節で、「わたしたちの本国は天にあります」と言っているのは、元の言葉では、「天の市民権」を与えられていると書かれていて、この町の背景を意識した言葉であると言われています。
 そういうフィリピの町にパウロたちは訪れ、今まで以上にローマ支配というものを強く感じていたものと思います。またパウロは、新しい町を訪れた際には、ユダヤ教の会堂に入ってイエス・キリストのことを伝えましたが、フィリピでは川岸で集まりを持つ人々のところへ行きました。それは、おそらくローマ皇帝を中心とした社会が街の隅々まで浸透し、旧約聖書の神を信じる人々は社会の中からはじき出され、目立たぬ場所で祈りの場をもっていたからだと思われます。
 その集いの中心的な人物の一人である、リディアという人が登場します。彼女は、商売をして生計を立てていました。小アジアのティアティラという町出身で、そこはあかね草を使う紫の染色業が盛んであることで知られ、リディアもその与えられた境遇を最大限に生かして、ローマの都市の中で家族や仲間と共に生きていました。神をあがめるリディア(14節)が熱心にパウロの話を聞いていたということからも、彼女が敬虔な信仰を持つ人物であったことが伝わってきます。彼女は、聖書を知る人でしたから、例えばエレミヤ書にある、イスラエルの民がバビロン捕囚の中で告げられた、「町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」(エレミヤ29:7)という言葉も知っていたのではないかと想像します。そして信仰の群れの核を築いていく役割を自ら担い、周囲のことも祈ることを続けていたのだと思います。

 さて、今日少し注目したい点は、リディアたちがローマ社会の世の中で生きていて、特に、川岸に集まっていたということについてです。リディアたちは、先ほど見たように集まる会堂を持つことが出来ずにいたためにそうしていたのですけれども、そのことを思いめぐらす時、それがより広い意味で、私たちにも意味を与えてくれると考えることができると思います。
 一つには、その場所は彼女たちにとって、安息日に、しばし日常からできるだけ離れて、神様の前に集うことができる場所でありました。リディアたちは、会堂とは異なる環境であってもおそらく会堂に集っていることを想像して、安息日の礼拝の時をもったのではないかと思います。そして自分たちが、世の何ものに属するでもなく、主に属する者であるという、“主の者”としての思いを新たに与えられたことでしょう。このことは、私たちにとっても大切な示唆を与えるものであると思います。
 そしてまた、もう一つには、彼女たちが中間的な場所に置かれているということについてです。その場所は、会堂のように外から完全に守られているところではなく、また街の中のように、100%社会の中にいるのとも違います。川岸というのは周囲にさらされていて、比喩的な意味でも雨や風などの影響を受ける場所であるはずです。そういう意味で中間的な場所ではないかと思います。
 そういうことを考えた時に、少し状況は違いますが、思い出されるのはパウロがある箇所で、中間的な位置で“板挟み”であるという心境を記していることについてです。パウロは、ちょうどフィリピの信徒への手紙の中で、彼自身が、一方でこの世を去って完全に主と共にいたいと切に願い、他方で彼は肉に留まって、自分以外の者のために働き、身を結ぶことを願っていると言います。彼は、「この二つのことの間で、板挟みの状態です」と記しています(フィリピ1:23)。特に、彼はここでは、自分が救われて完成するよりも、他の誰かのために、言わば肉を削るということを考えていて、こういうことを「他者性」と言って議論されることがあります。パウロの中にある徹底した「他者性」。それは、彼が、自分自身は他者と同じであり、他者と共に歩むという視点に立っているという点です。また、主イエスのことを「他者性の現存在」と言うことができます。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われ、そのように生きられた主イエスに基づいています。パウロも、当時の社会の制約の中で生きていましたが、彼の内にそういう観点が見られ、それは次の箇所にも現れていると思います。彼は、イエス・キリストを宣べ伝える実際の働きの中で、自分は、ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人に対しては異邦人のように、また弱い者に対しては、自分は実際に弱くなったと言います。それは、人々を得るためであるという内容のことを言い、その際パウロは、「福音に共にあずかる者となるためです」と述べています(コリント一9章23節)。ここにも、境界線を設けない、相手と同じ地平に立っている彼の「他者性」が、その信仰に特に見られるのではないでしょうか。
 そして、それらのパウロの綴った言葉からも感じ取れるように、彼が「他者性」を生きようとする時に、常に、狭間に立たされているように思うのです。一方で、現実の諸々のことから完全に離れて主と共にいることを願い、そしてまた他方では、他者と同じ地平に立つ時には、同時に雨風をも直に身に受けることになると思います。これは、リディアたちが置かれていた状況も、そうだと思うのです。

 そのことを考える時、私たちもまた、常に“狭間に立つ者”ではないでしょうか。一方で主を礼拝して主を声高らか讃美し、そのことに幸いを覚える者であり、そしてまた、現実の只中に身を置き、与えられた肉体をもって世と関わりながら生きています。そして、大切なことして、そのように中間的で、狭間に立たされているということに意味があるとすれば、おそらく私たちは、狭間に立つからこそ、祈りが与えられるのだと思うのです。
 それは、主イエスご自身がそうであったことを思い起こします。主イエスは、弟子たちのため、また共に生きる人々のために祈られました。それは、地上において、私たちと “同じ” になられたからこその祈りであると思います。そして、今日のフィリピというローマの植民都市の中で、「祈りの場」を維持していたリディアたちも、そこに生活をしつつ、時に葛藤を抱えながら、その狭間に立つ者としての信仰を生きていたのではないかと思います。
 私たちは、こうしてオンライン礼拝、あるいは録音での礼拝という自宅での礼拝を続けていて、その場というのは、日常の生活の座に近い所であるかもしれません。日曜日の朝、実際に移動して、周囲から気持ちも切り替わるようにして会堂に来るのとは違い、むしろ、いつもの生活に近い場所において、心を主に向けて礼拝を守られていると思うのですけれども、それゆえに、より私たちの隣人を覚えてより祈ることの役割を与えられていると言えないでしょうか。

 誰かと同じ地平に立つというということを考えていた時に、以前留学中にお世話になった、クラインズ牧師という大学のチャプレンのことを思い出しました。彼は、普段の会話の中で、クリスチャンでない人のことに触れる際に、ノンクリスチャンという言葉を使わない人でした。つまり、それは神の前に、私たちは被造物として区別はないということを意識したゆえのことだと思います。言葉を大切にすることで、更にまたそのような意識をもつことになるということを教わった気がします。しばしば学生が集う、クラインズ牧師家族の家には、クリスマスの時期など、アジア、中近東出身の学生が集っていた風景を思い出します。

 昨日は、アメリカ同時多発テロが起こった9.11から20年が経過し、解決の見えないアフガニスタンの状況などについては私たちの知るところであります。戦いの連鎖が止まぬところに、なおキリスト者としてどう考えるのかということについても、私たちは狭間に立たされていると言えるのではないかと思います。他者と同じ地平に立ち、祈る者とされているということを、特に考えさせられる時ではないでしょうか。

 さて、今日の箇所では、リディアはパウロの話を注意深く聴き、渇いた地に水がしみ込むようにその言葉を聴いたのだと思います。彼女自身、社会に耐え、他者に仕える者として癒しが必要でした。そして主イエスとの出会いにおいて、そのことが起こりました。彼女と彼女の家族が洗礼を受けることになります。それは、「開かれた」とあるように(14節)、主によってそのようにして御業が現されたことでしたが、それに応えるようにしてリディアはパウロたちを招待して、無理に家に泊まるようにと承知させた(15節)とあります。ここで、「無理に」という言葉はやや唐突で強い言葉に感じられますが、聖書の中で、この言葉が用いられている箇所が他に一か所だけあります。ルカによる福音書24章にある、いわゆる「エマオ途上」の話の中で、二人の弟子が復活された主イエスを「無理に」引き止め、共に泊まることを願い出ました(ルカ24:29)。二つの書が同じ著者によることを考えると、ここでは、強いて泊まるように求めたというルカ福音書の場面が思い起こされているようにも読めます。使徒であるパウロたちを迎えることで主イエスを迎え入れるという、信じる者の信仰による応答を、印象に残る言葉で強調して伝えているように思われます。
 また少し考えてみると、このことは、聖書の中で「絶えず祈りなさい」と言われていることに似ているように思います。私たちに必要なものを既にご存知のお方がおられ、そうであるのに、その方は私たちに求めることを願っておられ、自発的な姿勢を呼びかけておられます。似たような形で、私たちと共におられるお方が、既に共におられるのに、私たちの側が「主と共にいることを願う」という積極的な姿勢を呼び起こすことを望んでおられるという点を見ることができるのではないでしょうか。また、そのことが、フィリピという町で信仰を維持して生きていく上で必要であると、リディアたちは知っていたのではないかと思います。
 フィリピの教会は、ローマ社会の逆風の中でもその信仰を軸にして成長していきました。私たちにとって不利と思われる今日の状況にあって、リディアたちに見られるように、より一歩、積極的な信仰の歩みを為していきたいと思います。どうか真に命を与えてくださる主イエスが、私たちの生きる社会に癒しをもたらしてくださいますように、私たちも、祈りをもって過ごすことが出来ますように。
(2021年9月12日 礼拝説教要旨)