《 エレミヤ書 28章1~9節、使徒言行録 5章33~42節 》
日頃、生活の中で遭遇する事柄について、私たちはもしかすると、それをありふれた日常のこととして瞬時に片付けてしまうことが多いかもしれません。しかし、大切な場面においては立ち止まり、良き判断を下すことができたらと願うことと思います。
「人間の計画や行動から出たもの」、「神から出たもの」、という今日の箇所に出てくる言葉は、日々の中で、私たちの歩みの姿勢に深みを与える言葉であるように思います。
今日の新約聖書の箇所では、ユダヤ教の教師である、ラビ・ガマリエルという人物が登場します。当時実在し、大きな影響力をもっていたこのラビ・ガマリエルは、実際にどの程度クリスチャンたちに対して好意的であったのか分かりませんが、今日の箇所においては、一定の判断力を示していています。その内容は、少なくとも使徒たちからすれば、彼らに、命に危険をおよぼす危機から逃れる道を与えるものとなりました。
ユダヤ教の最高法院という議会の場において、ラビ・ガマリエルの目の前には、引きずられるようにして連れてこられたペトロをはじめとする使徒たちが、ユダヤ教の議会の命令に聞き従わないでいます。使徒たちは、人間よりも、神に従わなくてはならないと言い、ユダヤ人たちは、主イエスの場合と同じように彼らを殺そうと考えるのですが、ガマリエルは、即座に裁こうとしません。彼は、議場で憤る人々に対しては、「自分たちが手を下す必要もない。過去においても民衆を扇動したものたちが自滅していったように、様子を見ようではないか」と言って、自分たちの手を煩わせるまでもないとなだめつつ、しかし、さらに彼は、「神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。神に逆らう者となるかもしれない」と言います。
生まれて間もない初期のキリスト教が、実際にどのように広まっていったのかということは、非常に興味深い大きな問いであると思います。当時、ガマリエルも含め、誰もが、キリストを信じる小さな群れはやがて消えていくであろうと思ったことでしょう。また、日常的に周囲から攻撃を受けることもあれば、上から下される大規模な迫害もありました。
たとえば、紀元64年頃にはローマの大火が起こり、ローマ皇帝ネロは、それをキリストを信じる者たちの仕業であるとし、大迫害が起こったことがよく知られています。しかし、その後もキリスト教は消し去られることなく、生き延びました。そして、その後、再び信仰に入る者は増え続けて広まっていく不思議な過程を、先のガマリエルの言葉は言い当てているようにも思えます。
また使徒言行録の特徴として、そこに迫害のことが書かれてはいても、何千人が信じて加わったということや、ますます広がっていったという内容が書かれていて、そういう目覚ましい表現が目に留まります。何か勢いが感じられる書でもあります。そういうところから、私たちは悪いことがあっても、必ずプラスのことで巻き返しが起こるのだ、ということも読み取ることができるかもしれません。しかし、そこだけ聞いて現象面だけを捉えてしまうと、どうもキリスト教というのは楽観主義であるということにもなりかねないようにも思います。
そのような意味で、今日はもう一歩踏み込んで、大切な視点を、他の聖書の箇所と合わせて見てみたいと思います。
旧約聖書の時代においても、イスラエルの民にとって非常に困難な時代がありました。特に、バビロン捕囚を経験し、その際に、預言者たちが民に向って言葉を発します。その中でも、例えば、預言者エレミヤがハナンヤという預言者と対決したという場面は、重要なものであると思われます。時の状況としては、既に民の多くの者がバビロニアに連れていかれるその現実の中で、その事態をどのように受け止めたら良いのだろうかと人々が右往左往する中での、預言者同士の対決でした(エレミヤ書28、29章)。ハナンヤの方は人々の前に立ち上がって、こういうことを言います。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛(くびき)を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである」。これは、勢いがあって、人々を扇動する言葉であったと思います。それに対してエレミヤは、それは偽りであり、民を安心させようとしているだけだと言います。そして70年の年月が満ちたなら、主は人々を連れ戻すと言われると告げます。つまり、それは非常に長い期間を意味していて、ハナンヤが言うように、一時的な挫折ではないということです。言い換えれば、それは、一度人々が神様の前に全面的に砕かれて、自らの敗北を認める必要があるということを意味しています。
そして、これは神を神とするということに深く関係しています。つまり、ハナンヤのような表面的で安易な回復というのは、実際は神様を抜きにして語っているだけであるのですが、むしろ、人間の側が徹底した敗北を認めることこそ、神を神とするのだということを旧約の預言者は語っているのだと言えます。そしてこのことは、聖書の、特に預言者たちの言葉に見られる独特の視点であり、また教えであると思います。そういうことを踏まえた上で、その神様がよく心に留めておられるのは、災いの計画ではなく、将来に対して真の希望を与えるものだと言われるのです。
私たちは、元来、負けを認めるということは得意ではないかもしれませんが、しかし考えてみれば、主イエスが、あの十字架の木の上で、全く無力な者となられて、全き敗者となられたこと、そして、そこに大いなる神様の力が働いたということが、聖書が一貫して伝えていることであることに気付かされます。表面的な回復や、安易な希望ではなく、自分たちが打ち砕かれ、もはや何もかも神に委ねる他に道はないという意味で負けを認めるところに、主を主として、神様の新しい景色が開かれていくということが示されているのではないでしょうか。そのようにして、当時の使徒たちは、何をも恐れることなく力強く進んでいったのだと思います。
私たちの置かれた状況においても、どうか私たちを根底から支える神様がおられることを信じ、そこから新しい地平を見ることができますように。将来の希望を与えられて過ごしていきたいと思います。
(2021年7月4日 礼拝説教要旨)