《 サムエル記下22章1~20節、マルコによる福音書6章45~52節 》
今年の5月9日の日曜日は母の日にあたり、例年ですと、教会学校の分級で子どもたちがカーネーションとカードを準備している頃だと思います。教会から始まったこの日の由来については、また別の機会に触れたいと思いますが、子どもを育てるという献身的な業とその背後にある神様の愛に、私たちが育まれて今日があるということを心に留め、感謝の思いの中で礼拝の時を持ちたいと思います。そしてまたこの日は、特に、しるしというものに込められた気持ちを、私たちは意識する時ではないかと思います。
さて、今日の聖書の箇所は、弟子たちが主イエスに促されて舟に乗り、向こう岸のベトサイダという町に向かった時の出来事についての話です。弟子たちはその日、まだ明るいうちに出発したはずですが、嵐に遭遇して夜明けになっても格闘していました。恐らく彼らの内の多くが漁師として経験豊富な者でしたが、予期せぬ危機に遭遇し、必死に舟をこいでも前に進むことができず、恐れと不安の中に置かれています。
一方、主イエスは弟子たちを舟に乗せた後、「祈るために山に行かれた」(46節)とあります。ですから、この場面でも弟子たちのことをも祈っている主イエスの姿があり、そこに注目することができると思います。また、話の最初のところに、「強いて」、舟に乗せたとあり、弟子たちからすれば、主イエスに言われて舟に乗せられた状況でした。まだ周囲には群衆がいたため、主イエスの身の回りでまだまだすべきことが多くあるはずなのに、それでも「いいから舟に乗りなさい」と、やや一方的に舟に乗せられたということです。どうして、主イエスがそのようになさったのだろうかと不思議に思います。
実際のことはわかりませんけれども、そのことについて洞察するならば、やはり弟子たちからすると、好き好んで選んだ訳でもなく、十分な準備も身に着けていなかったかもしれません。つまり、自分の選択ではないけれども、その状況を与えられてしまったという、そういう状況の話であるということを念頭に置いて聞く話であると言うことができるのではないかと思います。
すでに湖上にあって、引き返すこともできない弟子たちは、そのような時においても、まずここで、主イエスの祈りのうちにあると言えるのではないかと思います。47節の「夕方になると」とは、暗く心細くなってきた様子が想像され、続く箇所は、二つの情景がぽっかりと浮かび上がるように書かれています。ちょうど、離れたところから見ているような「その小さな舟の方は、湖の真ん中に、そして、陸地の方では主イエスがただ一人」という情景です。何か主イエスの静けさの中に、その舟もあるかのように感じ取れます。
さて、嵐の方の現実に目を移すと、依然として混乱の中にある弟子たちがいます。さらに湖上を誰かが歩いて近づいて来られるのを見て、彼らは幽霊であると思い、大声を上げてパニックのようになっています。そこへ、主イエスの方から声をかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)。
福音書によれば、主イエスは、ガリラヤ湖を行き来して活動されました。「向こう岸に渡られると」という言葉が、何度も見られます。例えば、マルコ4章35~41節の似たような話では、嵐の舟の中で、主イエスが、ともの方で枕をして眠っておられたという場面が印象的です。その後、「わたしたちが死んでもかまわないのですかと」と、弟子たちは恐怖に怯えます。その時、主イエスは風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われ、風はやみ、すっかりなぎになったという話が思い出されます。主イエスの言葉に力があるということが示され、福音書には、主イエスとは、そういうお方であるということが告げられています。
例えば旧約聖書においても、神様が、風や波を静められるということが出てきます。
「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。/彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。/主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩編107編29~31節)
主の働きかけにより嵐は静まり、望みの港に導かれるとは、深い慰めであると言えます。そしてやはりそこにあるのは、人間を脅かす力に対して、神様は、ご自身を現して御力を示されるということです。
同じようにダビデ王が詠んだという歌にも、似たような内容が見られます。これは、サムエル記下22章で、ダビデがそれまでの歩みを振り返った際の歌とされています。
「主の叱咤に海の底は姿を現し/主の怒りの息に世界はその基を示す。」(16節)
主の叱咤に海はおののくのです。そして、直前の箇所を見ると、
「死の波がわたしを囲み/奈落の激流がわたしをおののかせ/陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。」(5~6節)
死の波、陰府の縄、奈落の激流という言葉が連ねられています。
ダビデ王というのは、どちらかというと華やかな印象がありますけれども、しかし、その人生においては、例えば、サウル王に執拗に命を狙われ、苦しめられ続けたことが知られています。あるいは息子アブサロムとの確執と彼の反乱、そして最終的にその死を悼むことになる結末など、その時の自分にはどうすることもできなかった多くのことがあり、現にそのような状況が多くあるということが、この歌には比喩的に込められているように思えます。そして、そういった諸々の奈落の激流も、神が叱咤され、そして静められるものであるとの告白と読めます。
そう考えると、神様が現れてくださる神顕現というのは、苦難と結び合わさっているのかもしれません。ダビデのように、また、弟子たちのように、嵐に遭い、苦難に遭遇する時、私たちは、神顕現に出会い、また、神様の方からすれば、そのような時に深く顧みられ「わたしだ」と言ってくださるということではないでしょうか。もしかすると、日頃私たちは気が付いていないだけのことかもしれませんが、しかしやはり、苦難の時に主は近いということを、聖書を通して、また、礼拝を通して伝えられているのだと思います。
今日の箇所について、もう少しこの福音書の全体の流れの中で見てみたいと思います。ここではよく見ると、主イエスの嵐に対する「黙れ、静まれ」という言葉がなく、むしろ、「わたしだ」という、その言葉に焦点があてられています。これは弟子たちに語りかけられた言葉ですけれども、結果的に、波も、風も、それに聞き従ったように思われます。これは、自然界が主イエスを知っているということです。また、少し前の箇所のマルコ5章には、ゲラサの人が癒される場面がありますが、悪霊が、「いと高き神の子イエスよ」と真っ先に叫んでいます。つまり、自然界も、悪霊も、イエスがどういうお方であるかということをすぐに察知して、ひれ伏しているのです。
しかし、それに対して弟子たちは、気が付いていません。今日の最後のところで、彼らは「心が鈍くなっていた」とマルコ福音書は説明しています。実は、この点については、ここだけではなくて、他の福音書と比べても、マルコ福音書全体において手厳しく書かれています。弟子たちは、叱られることの方が多いのですが、さらに彼らは、わたしだと言われるお方について、十分に理解できていなかったと言います。それは、マルコ福音書によれば、弟子たちが、主イエスが神の子である、あるいは、我が神と告白することに関して、それは人間の努力によるものではないことを伝えることに徹底していると言われています。
そして、それが可能になるのは、神様の働きかけを待たねばならず、具体的には、大切なこととして、主の十字架を経て、初めて人間の信仰の告白が可能であることが伝えられています。そのことが「本当に、この人は神の子だった」という、あの百人隊長の言葉に見出されます。そうすると、私たちにおいては、十字架の出来事を通して、十字架の主が「わたしだ」と声をかけてくださる招きによって、初めて主を告白し、主に応えることができるということだと言えます。
コロナの状況になって、ずいぶん長くなりました。そのような中、五月には連休がありましたが、あまり長距離の移動もできないので、きっと遠くのご家族や親戚に電話する機会も増えたのではないかと思います。わたしも、少し以前ですけれども、久しぶりに遠方の親戚と電話で話すことがありました。お互い大丈夫だということを話す中で、千葉の方で増えたら、「いつでもこっちこいや」と言われ、車で避難してくればいいと。そういう言葉に、率直にその気持ちが嬉しい気持ちになりました。そういう意味では、何か最近は、距離というものが、遠くにいても近いというように、心理的な距離を意味することの方が大きくなったように思います。あるいは、その逆に、近くの人も遠くなってしまう場合もあるかもしれません。やはりそこには、お互いの理解であったり信頼であったりが距離を越えるものになるということなのだと思います。
私たちと神様、あるいは私たちと主イエスとの距離というのは、人の場合と安易に比べることのできないものかもしれませんが、しかし、「わたしだ」という言葉には、やはり距離を越えて、その言葉の受け手である私たちとの交流が、再開される出来事であると思うのです。なによりも相手の気持ちというものがあり、そこに人格があり、その気持ちが込められた言葉ではないかと思います。
私たちは、今日も主イエスの言葉を、そのように聞きたいと思うのです。礼拝を通して、十字架の主の御声として、「わたしだ」という言葉に、主の思いを、改めて受け止める私たちでありたいと思います。
弟子たちは、状況を変えることはできませんでしたが、主イエスを迎え入れるということをしました。一見、当然の成行きのようにも思えますが、思いをめぐらしたい箇所でもあります。自分たちにはどうすることもできない状況において、主イエスを迎え入れるという判断を自覚的にするということ。それによって最終的に、弟子たちは、前に進むことができ、向こう岸に渡ることができました。
私たちの歩みも、弟子たちの乗り込んだ舟にたとえられるかもしれません。予期せぬことが起きるということを、身近に経験することの多い昨今であると私たちは思わされています。そのような中で、慣れ親しんだ聖書の話が、なお大切な御言葉として、私たちに語りかけられていることを、今一度心に深く留めたいと思います。
波や風に絶えず揺れ動く私たちですが、コロナの状況の中で、主イエスに守られ、社会の状況がどうか最善に導かれますようにお祈りいたします。
(2021年5月9日 礼拝説教要旨)