誰かのための祈り

《 申命記4章41~43節、ルカによる福音書21章37~38節 》
 聖書を読んでいると、まだ見ぬ先へ向かっていくこと、また、何かを越えて行くということは、全体を通底しているようです。旧約のイスラエルの民が約束の地へ入ること、そして、新約においても、信仰をもって生きる者は旅人であり、その道は、主イエスによって決定的な意味において開かれたということが記されています(ヘブライ人への手紙10:20)。この受難節の歩みにおいても、私たちは、そういうことを意識して過ごすことができるのではないかと思います。

 今日の聖書朗読箇所である申命記は、その中に細かい律法なども多く記されていて、どちらかと言えば、私たちには親しみを覚えにくい書の一つであるかもしれません。この書は、もともとイスラエルの民が約束の地に入る前に神様が語られ、それをモーセが取り次いで人々に告げたとその書の中で言われています。その内容は、まずイスラエルの民のこれまでの歩みについて、4章までのところで回顧されています。
 そして今日の箇所は、その歩みを振り返った最後の部分に書かれている内容で、聖書の小見出しにもあるように、逃れの町についての定めが記されています。それは、故意にではなく、誤って罪を犯してしまった者が逃れる地を与えられるという約束です。彼らは、そのようにして許しを得、また人々の復讐からも守られました。逃れの地は、許しの執り成しを受ける場所であるとも言うことができるでしょう。逃れの地があることで、彼らは神様によって配慮を受け、助けられました。そのことが、ちょうどヨルダン川を渡って約束の地に入る前に告げられていて、仮に過ちを犯してしまったとしても、酌量の余地があるならば、言わば神様のセーフティーネットがあるという内容が事前に告げられています。そのことに、神様の具体的な御計らいとその御心を見る思いがします。
 こういう人道的とも言える内容は他にもあり、例えば、申命記15章には、安息の年、あるいは、負債免除の年という規定が出てきます。七年に一度、この年には、土地を休ませることの他に、他の人に対する負債を免除することが定められていました。貸し借りを帳消しにするというものです。さらには、その年が近いからといって、誰かに貸すことを躊躇してはならないとも念を押して記されていて、その心は、貧しい同胞を決して見捨ててはならないというところにあると言えます。実際にどこまで実現できていたかは定かではないという見方もあるようですが、しかし、やはりこういう内容が、律法として神様から与えられていなければ、人々は、お互いの負債を完全に免除するという発想や、あるいはそのようにしてお互いを許し合うというのは、世の中に実現しないのではないかと思います。他者に対してあたかも自分の身内のように対すること、あるいは身内同士でも難しいかもしれないことについて、イスラエルの民は教えとして与えられていました。放っておけば弱肉強食の生存競争のようなままである人間社会を、私たちが痛感するほど、自分たちの外から与えられるということに、さらにはまた、それを共同体でお互いの共通の価値として共有できるというところに、希望があると思います。
 これらのことは、私たちがお互いにどうしたら共に生きていくことができるのかということを示していて、つまりそこには、神様ご自身が、人々に対して共生していくことを切に求めておられるという御心があると言えます。逃れの町にしても、負債免除の年にしても、少しおおざっぱな言い方かもしれませんが、次のように言うことができるのではないかと思います。それらの定めは、ちょうど扇子を広げた時の一つ一つの細い竹のようであり、それらが、持ち手のところで交差するように焦点が結ばれているのではないかと思うのです。そしてそこには、お互いが共に生きていくことができる共同体や社会を築くようにという神様の切なる願いとしての御心があり、それを私たちが受け止めていくことが大切な点であると思わされます。
 そのように当時のイスラエルの民は、目指す地においてそういう社会を実現していくのだという意識を希望のうちに抱いていたのだと想像することができます。その意味で、今日、私たちにも、これからの私たちの社会を考える上で大切な示唆を与えていると言うことができるのではないでしょうか。

 新約聖書においても、先へ向かって歩むこと、また、主イエスが先立って歩まれていることを福音書に見ることができます。今日の聖書朗読箇所はルカ福音書21章ですが、実はその次の章では、福音書の中でいよいよ過ぎ越しの食事の場面になります。つまり、いわゆる最後の晩餐について書かれていて、それは、主イエスが歩まれるその道において弟子たちと最後の過ぎ越しの食事をとる場面です。そして、今日の箇所には、主イエスがその直前においてとられた行動の具体的な様子が記されています。
 そこには、主イエスがエルサレムに上られた際に、エルサレムに滞在されず、夜になるとオリーブ山に宿をとられたことが短く記されています。そうされたのには、やはり、意味があったと思われます。オリーブ山には、ベタニアという村里があり、マルタやマリア、ラザロなどの主イエスを慕う人々が住んでいて、彼らは民衆であり、社会的には力が弱い人々でありました。主イエスは、エルサレムを最終地とする旅において、そこへ向かわれる直前で親しく交わりのあった人々の住むオリーブ山で過ごし、また、そこで祈られました(ルカ22:39以下)。
 祈られたということを見る時、もう少し具体的に考えてみたいと思います。たとえば、英語には祈りを現す言葉がいくつかあって、プレアーが一般的ですけれども、その他にも食前の祈りは、グレイス、また他の誰々さんのための祈り、つまり執り成しの祈りは、インターセッション(代祷)というように、その目的によって言い方に違いがあります。ここでの場面では、ご自身がご受難の時を過ごされた主イエスは、その時においても正に弟子たちのための代祷、執り成しを祈られました。ヨハネ福音書を見ると、17章に主イエスの弟子たちに対する祈りがあります。その文面は、実に臨場感の伝わってくる祈りです。彼らを守ってくださいと切に祈られる主イエスは、さらに、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(17:20)と祈られます。弟子たちから、さらにその次の者たちへと、祈りが延長していて、今もなお、主イエスが、私たちのために祈られていると感ぜられる祈りであると思わされます。
 主イエスがオリーブ山で祈られた際、弟子たちだけでなく、きっとベタニアの民衆のために祈られたにちがいありません。つまり、道を開きしイエスは、一人でそこを越えていかれるのではなくて、祈っておられるということです。そしてそれは、漠然とした祈りではなく、他の誰かのための祈りであり、神の御手に、弟子たちやそれらの民衆を委ねて祈り、進みゆかれたのだと言えます。オリーブ山に住む人々を思う時、彼らの存在は、私たちに主イエスをより身近に感じさせてくれるように思うのです。民衆と寝食を共にされた主イエスは、彼らの日常生活をよくご存じで、彼らの良いところについても、悪いところについても知り、その上で、彼らのために愛をもって執り成しを祈られました。それは彼らが、つまずいても地に落ちることのないためであり、ご配慮をもって人々を守られる神様に、彼らを委ねるためであったと言えます。主は、人々をよくご存じでありました。

 これは、少し卑近なたとえですので、これまでとのつながりの中で聞いていただければと思いますけれども、高校野球の、よく聞くような話です。ある選手が大事な試合の局面で、エラーをしてしまった。失敗をしてしまい意気消沈して戻ってくるその選手に、監督が一言。「そんなの計算済みだ」。その言葉を聞いた彼は、次の回で気を取り直して大きく活躍したという話。監督からすれば、その失敗も計算済みだというのは、その選手の良さも弱さもその個性も「分かっとる」ということなのです。そして、その上で任せているのだということなのでしょう。似たような意味において、主は、人々をよくご存知であります。オリーブ山の村里で宿をとる主イエスは、彼らの生活も衣食住も、すべてご存知で、そして、交わりのあった一人一人の良いところも悪いところもよく知り、その上で、執り成しを祈られている主イエスであると言うことができると思います。
 最終的に主イエスは、十字架に向かわれるのですけれども、もし、祈りというものが目に見えるものだとすると、それは、おそらく先へ向かって一歩一歩進まれる主イエスのその背中、あるいはその肩のところから、後方の方へと長く伸びているのではないかと想像します。そこには人々がいます。また、その執り成しの祈りの中に、主によく知られている私たちも入れられているのではないでしょうか。
そして、旧約から一貫してその憐みの心を示される神様の御手に、「委ねます」と主イエスによって祈られた者は、確かにその御手に渡されて、その中に置かれてあることを心に留めたいと思います。私たちも、神様のその憐みを今日も心に鮮明に思いつつ、そしてまた、私たちの友や家族を、隣人を主の御手に委ねて受難節の時を共に歩み過ごしたいと思います。
 また、どうか社会全体が共に生きていくことができますように。そのビジョンを、これからも御言葉により示され、良き判断をしていくことができますようにと祈ります。
(2021年3月21日 主日礼拝説教要旨)