新たにされる喜び(混沌ではなく)

《 創世記 1章1~5節、ルカによる福音書 3章21~22節 》
 今年は、新型コロナウイルス感染拡大の猛威で、先行きが不透明な年を迎えました。世界では、その他にも、年の初めから何か混沌とした状況を伝えるニュースが多かったように思います。しかし、そういう中で、私たちは、聖書に聴き、私たちの内に希望を与えられたいと思います。
 これから始まる一年を私たちが見据え、特に創世記の最初の箇所を読み、神様が「光あれ」と言われた天地創造について心に留めることは、とても意義があることだと思います。「夕べがあり、朝があった。第一の日である」と、創造されるその日ごとに、静かに語られているその言葉の背後に神様の喜びがあることを思うと、私たちの一日一日の生活の上にも、同じ神様の御恵みがあることを思うことができるのではないでしょうか。「夕べがあり、朝があった」と声に出してみると、そこには混沌から決別し、天と地を創られた神様がおられ、その同じ御心をもって今日も私たちの一日に御力を注ぎ支えておられることを思わされます。
 私たちの現実の世界を見ると、世界各地でも、これまでになく感染拡大状況が深刻になっています。地域によっては、収束が見えずに暗い状況にあることをニュースなどで聞く時、どうしても私たちは、この世界に対して悲観的な思いになり、重苦しい気持ちになりますが、創世記のこの御言葉は、この世界に対して根源的な神様のご意思と働きがあるということを示しています。つまり、混沌ではなく、光あれと言われて創造の業を進められる神様のご意思と働きが、現にあるということであり、それは、私たちが現実を生きる上での希望の御言葉ではないでしょうか。

 さて、この時期になると、礼拝の中で主イエスの洗礼の箇所が読まれることが多くあります。それは、主イエスのご降誕から礼拝ごとに福音書の順に従って読み進めると、年始には、主イエスの洗礼の場面になるためで、このことを教派によってはとても大切にしています。そしてそれは、私たちに、初心に立ち返るようにと語りかけるようでもあります。洗礼を受けること、また、受けたことの恵みを思い、そこにある神様の思いを聴き取りたい―そういう箇所であると思います。
 主イエスがヨルダン川で洗礼を受け、祈っておられた時、霊が降り、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)との声が聞こえたとあります。また、他の福音書にはないのですが、ルカ福音書は、特に、主イエスが洗礼の後に“祈って”おられたことを記しています。ただ受けたままの状態でおられたのではなく、その恵みを深く思いめぐらし、また、それが自らの内に染みわたるようにして祈られていたのではないでしょうか。そのことを思うと、私たちも、私たちの洗礼の恵みについて、祈りの中で改めて心に留めることを促されているようにも思います。
 また、祈られたということは、瞑想ではなくて、神様に向けられた祈りであるはずです。そして、「これは」わたしの愛する子ではなく、「あなたは」わたしの愛する子との声が聞こえたということを見ると、祈りに対する直接の答えとして、返ってきた言葉のように思えます。つまり、そこに、呼応関係があるということです。神様がご覧になって“心に適う”とは、心が喜ぶ、満たされるという意味の言葉です。ここに、存在が喜ばれるという愛の中に置かれている、という交わりがあります。主イエスの場合と、私たちの場合は違うかもしれませんが、しかし、洗礼の後に、この親密な呼応関係が始まっているということは、大切なことではないでしょうか。
あの天地創造を思い出すと、神様は、創造された一つ一つをそのつどご覧になって、「良しとされた」とあります。そして最後には、それらすべてをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と言われます(創世記1:31)。そのような、神様ご自身が喜び、またご自身が満たされるということが創造の業にはあります。その存在を喜ぶという、本質的な神様の愛を見るように思います。その関係性から、自ら隠れてしまった人に対しては、アダムよ、「どこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけられているところに、神様の思いを聴くことができるのではないでしょうか。そして同じように、洗礼によって始まった呼応関係は、私たちにおいて保たれているでしょうか。その関係性は、神様の私たちに対する思いを受け止めるのに大切な点であると、これらの箇所からも教えられます。

 洗礼ということについて考えると、それは、私たちにおいて起こった天地創造の業であると言えないでしょうか。使徒パウロも、神様の創造の業を意識し、そのことを自らのこととして捉えていたようです。彼は、次のように言います。「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリントの信徒への手紙二4:6)。つまり、キリストを与えられてキリストが我が内にあること、またその希望の光について、それは、神様が「光あれ」と言われたあの創造の働きと同じであると言うのです。それがなければ、暗く希望を見出せないこの自分に、キリストという希望を与えてくださったと。それは、神様の創造の業であると言います。また、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(同5:17)と言います。ここにおいて、キリストと結ばれることにより決定的に新しくされるという、神様のあの同じ創造の業なのだと言い、私たちは、主と結ばれたものとして、日々新たにされた歩みを与えられていることが語られています。
 洗礼を与えられ、キリスト者とされるということは、そのような神様の為さる業であり、そこに、“御心に適う”という、あの神様の喜びがあるということを、私たちも思い起こしたいと思うのです。
 最後に、主イエスは、洗礼を受けられ、祈りの内に新しい働きへと遣わされていきました。霊が鳩のように降ったとあり、それは主イエスが、いよいよこれからの大切な働きのために、霊によって備えられたと言えます。ひるがえって私たちについて考える時、今日、私たちが置かれている状況は、必ずしも楽観視できる状況ではないかもしれません。しかし、私たちの社会において、また世界において、それが混沌とした状況のように思えても、私たちを根底から支えておられるお方のあることを思い、歩みたいと思います。また、この時、私たちが、改めて洗礼の意義を思い起こし、新しい思いをもって遣わされ、これからを歩んでいくことができますように祈ります。
 コロナにより、またその他の状況により、不安の中で過ごされている方々が、主の御手に強く守られて、過ごすことができますようにお祈りいたします。
(2021年1月10日 礼拝説教要旨)