《 ルカによる福音書12章22~34節 》
教会には、ゆずの木がありまして、近所の方も、犬の散歩をしながら「今年はよくなったねぇ」と声を掛けてくれる嬉しい木です。今年も色が濃くなり始め、鳥が来てつつくようになったので少し早めに収穫しました。聖書の舞台であるイスラエルも果物の豊富な地方ですので、イエス様の時代にも、きっと鳥たちが、人が収穫を始める前に、朝早くから秋の果実をほおばっていたのではないでしょうか。イエス様も、そういう光景を日頃見ていて、今日のこの聖書箇所の話をされたのだと思います。
この箇所では、まず主イエスは、鳥が自分で納屋や倉を建てたりせず、神様がその鳥を養ってくださるということについて言われます。少し前の箇所でも、「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と言われ、だから、あなたがたは、恐れるなと、言われています(6-7節)。
またその昔、イスラエルが非常に栄えた頃、ソロモン王の衣は、高貴な紫色をしていたことから、27節の「野原の花」は、おそらく地中海東部に咲くアネモネのことではないかとも言われています。そして、それらは、そのままで美しいと。「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。私たちは、神様にとってそれらよりも「どれほど価値があることか」(24節)ということを、野の花や空の鳥が、思い起こさせてくれると、主は言われます。
私たちは、世の中の価値基準にさらされ、自分自身をもそれによって判断してしまうところがありますが、私たちに、神様の視点で見るということを思い起こさせてくれるのが、これらの自然の中の小さな生き物たちであるとは。主イエスは、何と人々の心を和ませる話をされることでしょう。そしてそれは、主イエスが言われるからこそ、柔和な中にも「鳥よりもどれほど価値があることか」と力強く、私たちに迫ってくる言葉になるのではないでしょうか。
そしてさらに、主イエスが弟子たちに告げられたのは、彼らが、思い悩んだからと言って、それによって自分の寿命を延ばすことはできようかということです(25節)。実際、寿命に限らず、身の回りや私たち自身のことを考えても、一見、自分でより良く管理しているように思えても、改めて考えると、自分自身でコントロールできることは、決して多くない、いや、そうできることは、いかに少ないだろうかと思わされるのではないでしょうか。特に、自然の中に身を置くと、自然と共に生きていくということは、自分たちの無力さを痛感することの連続ではないかと思います。このコロナ禍も、私たちはそういうことを知らされていると言えるかもしれません。聖書の、寿命を延ばすこともできない、というのは、私たちの体も自然の一部であり、それに抗えないということを告げています。そういった、ある種の聖書的達観とも言えることを踏まえ、ここで、最終的に導かれているのは、そうであるから、この世のことに執着して思い煩わされて生きる生き方ではなく、むしろ、そこから自由にされて、神の国を求めなさいということです。そして、必要なものについては、与えられるのだという約束が語られています。この約束は、教会生活を送る者にとっての、大切な御言葉であり、また主からの大きな励ましでもあります。
実は、この話は、マタイによる福音書にも記されていて、多少の違いが見られます。マタイの方は、締めくくりが、私たちのおそらく親しみのある、このような言葉になっています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。これは、私たちの日々の荷が重い時には、特に安らぎを与えられる御言葉ではないでしょうか。何よりも、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という同じマタイ福音書11:28の、主イエスの言葉と響き合っていると言えます。
そして、ルカ福音書における、主イエスの教えの強調点を探ると、一つには、「小さな群れよ、恐れるな」という言葉にあります(32節)。直前の「神の国を求めなさい」とは、ここでは、世の価値観に対して、私たちが信仰によって日々を歩むことを意味しています。厳しい世の現実とその不安にあおられたり、惑わされたりすることのないように、主イエスは注意を促しつつ(34節)、弟子たちを鼓舞しています。
特に、小さな群れよ、恐れるなという励ましは、旧約聖書の時代からの約束に基づいています。神様が、イスラエルの民を選ばれたのは、彼らに力があったからではありません。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:7-8)。そして、ご自分の宝の民と言われました。
そして、ルカ福音書が書かれた時代、教会に集う人々の意識も、似たようなものであったのではないかと思います。社会の中で小さな存在であった彼らは、それでも神様が支えてくださっているという現実を感じ取っていたに違いありません。また、さらに、その社会の中で彼らを用いようとされているという御心を「恐れるな」、という御言葉から聴き取っていたのだと思います。人々は、その時代状況の中で、より生き生きと、その御言葉を聴き、教会は、そのようにして、主によって世に立たされていきました。
実は、先ほどの教会のゆずの話ですけれども、木の枝を見上げて収穫の作業をしている時に、教会の近所の子どもたちが近くで遊んでいて、何しているの?と近寄って話しかけてくれました。ちょうどその時のことですけれども、上空を飛行機が普段よりもかなり低いところを飛び、その音に驚いた小さな子が、両手で耳をふさぐほどでした(11/6(金)のことです)。木になった黄色いゆずと、子どもたち、そしてその会話をかき消した飛行機の轟音。それらのことが、主イエスの語られた、今日の、野の花、空の鳥の話と、何か重なるようにして、情景として心に残る出来事でした。
ルカ福音書は、神様が、ご自分の真理を、小さな者に示されるお方であると言います。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(ルカ10:21)。特に、小さいもの、弱いものを選んで用いられ、また、彼らがサインを送っているということも言えるのだと思います。いと小さき存在を尊び、御心を知らせてくださることを、常に心に留める私たちでありますように、そのためにも、私たちも柔和な心を与えられたいと思います。
次の世代のことを考える時、私たちは、より具体的なことを課題として負わされています。不安のない生活を具体的に守るのは、大人の責任であるというのは間違いのないことです。そういう意味で、例年この時期に、子ども祝福の祈りを行ないますが、次の時代を生きる子どもたちをおぼえ、心を合わせて祝福を祈るということの意義を思います。特に、コロナ禍における、子どもたちの成長を、主が守り、これからも豊かに育んでくださることを祈ります。
また、祝福を祈ることが、この地に対して、御心が成るためにできる大切なことであり、そのことは今日だけに終わらず、日常の生活においても、私たちが、キリスト者としての意識と責任を負って歩む者とされていくということにつながるのではないかと思います。ルカ福音書の時代、教会とキリスト者は、肩を寄せ合うようにして生きる小さな存在、文字通り小さな群れでした。しかし、それらのキリスト者たちは、ローマ帝国支配が生活の隅々にまで力を及ぼす社会の中で、御言葉により、為すべき務めのために強く生かされていきました。その信仰を、私たちも、どうか与えられますようにと祈りたいと思います。
(2020年11月8日 礼拝説教要旨)