《 ヨハネによる福音書10章7~18節 》
聖書の中には、羊飼いの話が多く出てきます。羊飼いの話というと、何か私たちの生きる現実からは遠いような気がしますが、そこにから、今日を生きる私たちに大切な気付きを与えられることを信じ、今日の聖書の箇所を見ていきたいと思います。
聖書の時代の羊飼いたちは、その多くが主人に雇われていました。朝になると、羊飼いたちは、自分に委託されている主人の羊を囲いから連れ出して、牧草を食べさせ、運動させ、また水のあるところへと連れていき、渇きを癒し、夕方になると、主人の囲いの中へと連れて帰りました。門を出入りさせる時とは、羊飼いたちが、羊の数を数えるため、その責任を意識する時であったと思います。また、主人からすれば、親身になって、きめ細かく羊の世話をしてくれるのが「良い羊飼い」でありました。
旧約聖書では、主人である神様が、預言者を牧者(羊飼い)として立て、イスラエルの民を導かれますが、それらの牧者たちは、群れを養おうとしないと叱責されています。「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(エゼキエル34:4)。これらの働きを具体的に想像すると、逆に、主イエスが、良い羊飼いであられるとはどういうことかと、その意味がより伝わってきます。また、病めるもの、傷ついたもの、追われたものという言葉について、その社会的状況を考えると、これは、どの時代にも必要とされている働きであると気付かされます。そして、主イエスの働きを担うという意味では、常にそういう視点で私たちが社会を見つめること、また、その働きが教会にも呼びかけられているということではないかと思います。
さて、主イエスは、やや唐突に、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(16節)と言われました。どうも、人々の視野には入っていない主イエスの展望があるということなのです。囲いの中の者でない、他の羊という言葉を聞いて、人々は驚いたのではないかと思います。当時は迫害の強い時代でしたから、外は敵という状況で、自己防衛のために人々は、自分たちの垣根を高くしていたかもしれません。内と外の境界線をはっきりと区別する自意識が、なおさら強かったと思います。
囲いの外とは誰を指しているのだろうかと、彼らは疑問に思ったはずです。一つには、まだ、イエスを信じていない人々のことについて言われていると考えることもできると思います。彼らも導かなければならないと。また、もう一つには、ヨハネ福音書の書かれた時代状況がここに反映されていて、他の地域にいるクリスチャンたちのことであろうと言われています。彼らも「わたしの声を聞き分け」、「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)とあるので、つまり、自分たちの目の前にある教会とは別の教会の存在について知らされています。それらも同じように導かれて、やがては一つの群れになると言われています。一つとなるということですから、パウロ的に言えば、一つの体とそれぞれの部分であると言えます(コリント一12:12以下)。その羊をも導かなければならないという主イエスの展望があると知る時、やはり、私たち自身も視野が広げられるのではないでしょうか。
「囲いの外も」、ということを考える時、私たちにとってはどういうことが言えるでしょうか。私たちは、常日頃、自分の通う教会のことをまず考えますけれども、日本にある教会、また世界にある教会のことも考えます。また、それぞれの地域があります。そこに思いを馳せるようにと主イエスの言葉から促されます。
例えば、昨日のニュースでは、新型コロナウイルスのさらなる脅威について、特にブラジルの、ある貧しい地域では、三人に一人が陽性であるとの状況が報道されていました。ブラジルのサルヴァドールには、日本キリスト教団の小井沼眞樹子宣教師がおられます。ずいぶん以前、神学校の寮に住んでいた際に、一時帰国されていた小井沼宣教師ご夫妻とお会いする機会がありました。そのようなニュースを聞き、個人的にではありますが、そのことがふと頭をよぎります。遠くであってもそこに繋がりを覚えます。
また、九州での猛烈な豪雨による災害についても、現地の報道が為されると心が痛みます。そういった状況を知った中国の友人からメールが届き、その中で、日本の豪雨災害について心配してくれました。というのも実は中国でも、広範囲で豪雨と大きな洪水被害が出て、村全体が水没するなどの被害もあって、おびただしい数の人々が避難を余儀なくされたと言っていました。そして、彼のメールの最後には漢字八文字で、こう書いてありました。「山川異域
風月同天」(山川、域を異にすれども、風月、天を同じうす)。山や川の景色が違っても、我々は同じ天の下にあると。この言葉の由来は遣唐使の時代のことだそうですけれども、友人の彼が、その言葉をさらっと書いたのには理由があって、今回のコロナの件で日本側が中国に送った支援物資の段ボールの箱に、この漢詩を添えたことが中国で大きく話題になったらしいのです。それを彼が知って、メールに書いてくれました。同じ痛みを覚えることを通して、つながりを見出してくれていました。
囲いの外、という話ですけれども、私たちは、どうしても、日頃、意識や気持ちが届く範囲があって、これは自戒を込めて思うのですけれども、どうしても自分の身近なところで止まってしまうところがあります。また、教会においても、やはり、普段私たちが考える場合、この勝田台教会のこと、あるいは、私たちの属する日本キリスト教団のこと、という範囲に囲いを設けてしまうことが多いのですけれども、今日の箇所では、主イエスご自身が、この囲いの内ではない、つまり外にいる存在も大切だ!と言われていることに目を留めたいと思うのです。
そして、その時に、そのつながりを受け止めるのに大切なことは、一つには先のように、同じ天の下にあるという、被造物性だと思います。同じ天を思う時に、自ずと地平が平らに広がっていることに気づかされるのだと思います。そして、もう一つ、今日の箇所から鍵を与えられるとすれば、それは、「羊のために命を捨てる」という言葉ではないかと思います。実は、今日のこの箇所の中に「命を捨てる」という言葉が五回も繰り返して出てきます。これはヨハネ福音書の特徴ですけれども、捨てるということですから、受け身ではなくて、主イエスが自ら進んで、強い言葉で言われているのです。そして、それは、私たちのこの囲いの内のためだけではく、全ての人のためであり、それ以上ないという愛の究極の形において示すと言われています。
私たちは、どちらかと言えばオブラートに包んだような人当たりの良い態度や表現を好むところがあると思います。しかし、それは表面的または一時的な、かっこ付きの愛であるかもしれません。人のために「命を捨てる」ということの内には、偽りがなく、それは、いざという時の必死の行動です。そしてその究極の愛を、真っ直ぐに私たちが受けていること、そして、その同じ牧者のもとに、全ての者と共に私たちはあるということが伝えられているのです。
弟子たちは、この話を聞いて、躊躇したと思います。むしろ主イエスについていけず、とり残されていたかもしれません。この福音書の全体の流れとしては、仮庵祭の秋、そして、神殿奉献祭の冬とページがめくられる毎に、季節も進んでいくのですが、主イエスの方は、既にもっと先に、つまり過ぎ越しの祭りという次の季節、すなわち十字架へと進んでいこうとされています。自ら命を捨てると語られる時の語気からは、そのように思われます。
その意味で、私たちは、むしろ常に先へ先へと行ってしまう主イエスの後を、つまずきながらも追いかけるようにしてついていく、弟子たちのようではないでしょうか。不格好に失敗しながらも、従おうとする弟子たちの姿は私たちの姿であるかもしれません。
「わたしを愛するか」と、ペトロに三度問われた主イエスの言葉は(21:17)、彼が、ついていこうとしながらも、主イエスを三度否んだことと重なります。他から「あなたも一緒にいた」と言われて、「そんな人は知らない」と誓いの言葉とともに言い放ったペトロ。しかし彼は、最後には、「わたしの羊を飼いなさい」と主イエスから任されるのです。この内容は、一見続編のように、ヨハネ福音書の最後の章に記されている話ですけれども、その意義は、やはり主イエスの働きが、人に託されているというところにあるはずです。私の羊を飼いなさいと。主イエスが「私の」と言われる時、私たちの周囲にいる一人ひとりも、主が深く心にかけておられる一人であるということを改めて心に留めたいと思います。
私たちの内を正直に見つめると、囲いや制約が付きまとっていることに気付きますが、御言葉に触れ、日々新たに変えられていく私たちでありますようにと願います。主イエスの示されたあの同じ地平へと広がっていく心を与えられて歩むことができますように。また、社会において、危惧される状況が多くあります。どうか、痛み、悲しみ、叫びのあるところに、牧者なる主イエスの執り成しと平安とがありますように、お祈りいたします。
(2020年7月19日 礼拝説教要旨)