《 ヨハネによる福音書17章20~26節 》
新型コロナウイルスの感染拡大は、現在も世界各国において収束とは言いがたい状況にあります。南米でも貧しい人々の生活圏で感染が広がり、さらにこれから秋、冬を迎え、その影響が危惧されていると言われています。私たちは、今日もそのことを心に留め、またその中で礼拝を守っていることを思い、与えられた聖書の箇所を見ていきたいと思います。
ヨハネ福音書に記されたこの「祈り」は、主イエスの地上での最後の説教に続く箇所です。その告別の説教の後に、弟子たちはいよいよ世に遣わされる時が来たと、イエスご自身が彼らのために祈られます。「御名によって彼らを守ってください」(11節)。また、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。これらの祈りは、後の教会を大きく励ますものとなりました。
迫害が強まる中で、明日はどうなるか分からない、暗く厚い雲に覆われたような世界にいるキリスト者たち。彼らは、世の土台を据える前から(24節)という言葉を聞き、不安定な世の中で、自分が立っているその根底から支えられる思いがしたのではないだろうかと想像します。そのようにして、その時代時代において、キリスト者たちは、この主イエスの執り成しの祈りの中に希望を見出してきました。
この主イエスの祈りの中で、特に繰り返されている内容があります。それは、「彼らが一つになるため」という祈りです。21節「すべての人を一つにしてください。」、22節「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」、23節「彼らが完全に一つになるためです」。イエスは、切なる祈りとして、弟子たち、また後の世代のキリスト者たちが、常に一つであることを祈っておられるのです。キリスト教の歴史を見ると、特にキリスト教の外から見る時には、どうしてこんなに教派が分裂して沢山あるのかという印象を持つのも事実であると思います。そういった中で、各教派がその意義と重要性を心に留めて一致を進めていることは、やはりこれから先も尊重されねばならないことであると言えます。(5/24~は、ちょうど、アジア・エキュメニカル週間と定められています。)そしてまた、教会内の一致についても、私たちは聖書に向き合うごとに、心に留めたいと思います。私たちは、キリストの体であり、一人一人はその部分であること、また、霊は一つということに、私たちの共通の土台があると書かれている通りです(一コリント12章11、12、27節)。
さて、今日は、「もう一つの一致」ということについて、注目したいと思います。この短い箇所に、繰り返されている言葉がもう一つあります。それは、「世が知るようになる」という内容です。21節「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」、23節「また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」。神様が、主イエスを愛しておられたように、弟子たちをも愛しておられたことを、世が知るようになる。そのようにして、世がキリストを知るようになると言います。今、弟子たちが遣わされていく「世」ということが注目されている訳です。
私たちは、礼拝を守るのは週に一回で、その他の曜日や時間は「世」の中で生きています。クリスチャン同士、平日も励まし合っていると言えますけれども、やはり、課題と向き合っている時には一人である訳です。また、信仰の課題というのは、最終的に誰にも代わってもらうことのできない事柄のようです。そして、今、「私たちが一つである」と言えるのは、私たちが真剣に、与えられているそれぞれの課題に向き合っているかどうかという点にかかっていると言えるのではないでしょうか。日夜、私たちが置かれている場所において、また与えられている課題に対して、記されているようにキリストの愛をもって向き合っているということが、実は、私たちに、主にある同志としての「一致」をもたらすのではないでしょうか。
少し関連することとして、使徒パウロの場合を思い出してみたいと思います。パウロと書簡の宛先である教会とのことを考えてみると、場所は違えど、彼らが「共有している思い」というものがあったのではないかと思います。これは、パウロの手紙の多くに見られることだと思いますけれども、例えば、テサロニケの信徒への手紙一を見ると、最初のところに、パウロはテサロニケの信徒たちのことを思い起こして、いつも神に感謝していますと書き始めています。そして、彼らの労苦について言及し、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」と言います(1章3節)。
ここには、実は、三つの言葉が並べられていて、それらは、働き、労苦、忍耐という言葉です。この三つは、文字通り、人の生活の、また人生の徒労だけを表す言葉です。しかし、それに信仰が関連付けられた表現になっています。「信仰の」働き、「愛の」労苦、「希望の」忍耐。パウロが伝え聞いたという、テサロニケの信徒たちの行為が具体的に何であったのか、また、その状況は分かりませんが、それは確かにパウロがそれを聞いて、とても励まされたことでした。
これは、手紙の挨拶の部分だからといって、社交辞令として言っているということではないと思います。実際、テサロニケの信徒たちの、彼らの「神に対する信仰がいたるところで伝えられている」(8節)ということが書かれていて、場所は離れてはいても、信仰をもって生きる者のひたむきな歩みが、励ましになったり、慰めになったりするということがあり、そのことがお互いの間で広く起こっていたことが分かります。パウロもまた、実際に苦労し、時に行き詰まりを覚えるところがありました。直接的な迫害や艱難についてもそうですし、またこの手紙を書いた時は、天幕作りの職人としての生活の時期と、実は重なることからも、日々の実際の生活上の苦労も、身に染みて心底知っている。そうであるからこそ、一人一人の信仰者がそれぞれの場所で、気落ちせず信仰により文字通り踏ん張っている真剣な姿を聞き、慰めを与えられた。それは、日々、信仰の課題と向き合って過ごしている状況にある者にとって、なお実感することではないかと思うのです。また、それゆえに、通じ合うものがあり、お互いの間になお響き合う信仰があることを知ることとなるのではないでしょうか。
ひるがえって私たちは、自分たちの状況について目を向ける時に、私たちは今、自宅での礼拝を強いられ、共に集うことができない状況に置かれています。そのような中で、改めて教会とは何か、キリスト者として生きるとはどういうことかということを考える時を与えられていると思います。そして、必ずしも、日曜日に時間と場所を単に共有することだけが「一致」「一つである」ということではないと思うのです。むしろ、それぞれの場所で目の前の課題に祈りをもって向き合うことが、実はお互いの間に通い合う、同志としての一体感を与えてくれるのではないでしょうか。離れてはいても、同じ主に与えられた課題を担っているということを深く心に留める時、それは、また、目に見えない「聖霊による一致」と言うことができると思います。次週にはペンテコステを迎えます。その意味で、一人一人労苦を担う者として、共に喜びを分かち合うことができますように。また、今日も、主イエス・キリストの執り成しの祈りの中に置かれていることを思い、社会の状況が、その根底から支えられ、み名によって守られますように心から祈ります。
(2020年5月24日 礼拝説教要旨)