旅の行く手に

《 ルカによる福音書 24章13~35節 》
 今日、世界中で新型コロナウイルスの感染拡大の猛威が心配され、そのことを覚えて祈る中、私たちは、改めてイースターのメッセージを聴く時を過ごしています。
 聖書では、復活されたイエス・キリストの出来事が、つらなるようにして続きます。今日の二人の弟子たちがエマオという村に向かう話も、その一つです。元々はある弟子が旅をしていた際に経験した話について、ルカ福音書がそれを語っています。その話の中心に、「イエスは生きておられる」との言葉を据えて、復活されたイエス・キリストが共におられるということに、目を開かれていったと伝えられているこの話。これは言わば弟子たちの、もう一つのイースターの物語と言うことができます。
 エマオという場所は、現在では正確には分からないようですが、エルサレムから見て田舎の方角であったとあります(マルコ16:12)。時は、過ぎ越しの祭りの後の時期、つまり、ちょうど今頃の季節の、新緑の細かい葉が枝に散りばめられたような木々が見下ろす中でのこと、二人は都を後にして歩いていました。そのような美しい季節に反して、弟子たちは、暗い気持ちでエルサレムを背にして逃げるように歩いていました。それは、自分たちが希望を置いていた主イエスが、十字架につけられてしまったためでした。彼らは、これで終わりだと思いました。もう何についても信じることができない彼らは、イエスが葬られた墓が空になっていたことや、天使が現れて何かを告げたと言うことも知っていましたが、それらは空しいと彼らには思われました。「暗い顔」というのは、そういうことだと思います。これから先のことについて、何の希望も持てない状況でした。話しているお互いがそうである訳ですから、二者の間には希望の糸口が見出せません。そのような時に、道すがら見知らぬ人が現れて、旅に同伴しながらこちらの様子を伺い、どんなことが起こったのですかと問うのです。それが、もし主イエスであると分かれば、弟子たちも、ありのままの自分たちの落ち込んでいる感情、また、それに付随する戸惑いや怒りの感情を露わにしなかったかもしれません。しかし、主イエスの方も、名を明かさずに、それをまず聞いておられます。道中を共に歩き、耳を傾けておられる主イエスの姿がある。それが、この話の前半部分です。
 旅に同伴するということには、その人と共に歩むということが象徴されていますから、復活のイエスを言い変えれば、旅の同伴者イエスと言うことができると思います。私たちのこの状況についても、これから先、どのようになるのだろうかという不安をおぼえる歩みにおいて、また、お互いに顔を見合わせても答えが出る状況にないような道すがらにおいて、そこに寄り添うように相づちを打ちながら歩まれるお方がおられる。それが、復活された主イエスであるということを、まず、心に留めたいと思います。
 一行は、目指す村に近づいたのですが、主イエスは、なおも先へ行かれるつもりでした。話の上では、そのことによって弟子たちが、主イエスに「どうか共にいてください」と願い求めることが、より伝わる形となっています。今、主イエスが先へ進もうとされたということに少し注目してみると、弟子たちが無理に引き留める必要があったということは、主イエスの気持ちの強さをなお示しているように思います。これは、想像ですけれども、弟子たちのことを気にかけていない訳ではない。彼らにも大切なことを知らせたいと切に願っておられる。しかし、主イエスは、より距離の長い視野を持っておられるということではないでしょうか。そのことについてもう少し思いめぐらしてみたいと思います。
 一つには、やはりより多くの人々に、という意味があると思います。私たちは、この弟子たちのように、視野が狭く、どうしても身の回りの関係に限定されてしまい、家族や親せき、友人、職場関係や、町内会くらいの範囲でしか、親身に考えないところがあるかもしれない。自戒も込めて、やはりそう思います。しかし、そういう垣根を超えるということは、福音書の中で常に主イエスが教え、実践してこられたことではなかったかと思います。
 そしてもう一つには、時間的にも、私たちよりも、より遠くを見つめておられるのではないだろうかという点です。特に、ルカ福音書の特徴を見た時に、ルカ福音書は、時間というものを意識しているところがあると言われています。特に、イエス「後」の時代について、「教会の時」として位置付けて、大きな問いとして、その「教会の時」を、キリスト者はどういう心構えで歩んだらよいのかということに関心を置いているのです。
 例えば、興味深いのは、ルカ福音書に書かれている主の祈りです。日毎の糧に関する祈りのところで、マタイ福音書の方では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:11)となっているのに対して、ルカ福音書の方では、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(ルカ11:3)となっています。違いは、マタイの方は、「今日」一日に集中しているのに対して、ルカの方は、「毎日」与えたまえ、と言います。これは、何か欲張りとか、不信仰とかいうことではなくて、これから続く道を長い視野で見つめて、その一歩一歩にふさわしい形で、糧を与えたまえ、恵みを注いでください、私たちの道のりにおいてその歩みを支え続け、力づけてくださいという切なる祈りです。そう考えると、この、エマオ途上における旅についても、主イエスの先を見つめる視野というものから、同じような視点を読み取ることができるのではないかと思います。
 私たちは、今、置かれている状況を考えた時に、特に長い目で見つめることが必要とされているようにも思います。そのような時、「長い旅」あるいは「心が暗くなるような旅」とも思われる歩みについて、その中で、私たちは、目に見える範囲で右往左往しがちですけれども、主イエスがなおも私たち以上に、先のことを、私たちのために考えておられることが示されていると、ここから読むことができるのではないでしょうか。
 聖書は、世の中の動きというのは、同じところをぐるぐるとめぐったり、繰り返したりするものではなく、最初があり、そして最後がある、つまり点と点を結ぶ線であると私たちに伝えます。そうだとすると、必然的に、その中を生きる私たちの姿勢や心持も違ってくると思うのです。時代は繰り返しているのだ、ということであれば、時がめぐるということで、「そういうものだ」と気持ちを収めるというのも一つの方法かもしれません。しかし、聖書は、私たちが一つの地点から新たな地点へと向かう歩みをしていて、その一歩一歩を主に信頼して委ねるようにと言います。また、ルカ福音書の視点で言えば、今日だけでなく、明日、またこれから先についても、心を落ち着けて長い視野をもち、信仰によって先を見つめて歩むようにと伝えられている。このことは、私たちの置かれている状況についても、大切なことではないでしょうか。

 さて、最後の場面では、辺りが夕暮れ時になり、宿屋の明かりがほんのりと灯る光景が目に浮かびます。その中で、イエスと共に食卓に着き、食事をする場面は、大切なことを、心落ち着けて聞くにふさわしい時ではなかったかと思います。弟子たちは、道すがら、ものごとをどう受け止めてよいのか分からないと感じていたのですが、心が熱くなるような気持ちが生じたと言います。それは、混沌とした中で、神のご意思というものに触れた瞬間のことではなかったかと思います。実はここでは、ちょうど「最後の晩餐」に似た様子が記されていて、その言葉も、よく似ています。ルカ福音書は、実はここで教会の聖餐式のことを考えているのですが、パンを裂くということに込められている意味を、ここでもう一度注目してみたいと思います。パンが裂かれるということは、主イエスが十字架に掛かられたことを意味し、また、パンを分けるということに、人に命を与えるということが、示されています。ですから、パンを裂いて与えるということは、本質として、自らの命を他者に与える、あるいは、そういう願いをもって生きることを示す行為であると言えます。そしてまた、パンを裂くということの本質、つまり人に命を与えるということを真剣に受け止めようとする時に、そこに教会というものが生じるということをも示していると思うのです。つまり、形ではなく、その本質にあるものをもう一度見つめ直すことで、そこに小さな教会が生まれる。今、ここには弟子たちは二人しかいませんでしたけれども、そこにも、心が熱くなるような小さな教会が生まれたと言えないでしょうか。
 私たちは、今、教会に集うことが許されなくなり、それぞれの場所で礼拝を守ることになりました。そして、このエマオ途上の弟子たちの話を改めて聞く時、各場所において、私たちも今日、生かされ、また私たちも命を与える生き方があることを心に留める時、そこが小さな教会となると言うことはできないでしょうか。また、特に、既存の形というものが、問い直されるような経験をする時に、もう一度、命を分かつということの本質において生きることが、置かれた所で教会を生きるということになるのではないかと思います。どうか、それぞれの場所において、そのような意味で、教会を生きる歩みをしていくことができますように。
 また、世界や私たちの社会の状況の中で、どうか最も影響を受けやすい人々の命と生活が守られますように。私たちには先が見え得ず、多くの不安を抱えていますが、私たちを根底から支え、主が見ておられるところの先へと信頼して歩むことができますようにお祈りいたします。
(2020年4月19日 礼拝説教要旨)