《 マタイによる福音書 28章1~10節 》
イースターの朝を迎えました。例年ですと、CSの子どもたちが卵に色をぬって飾ったり、卵探しをしたりするイースターですが、今年は、緊急事態宣言の発令という中で、お祝いするということがどこかはばかられるような状況に置かれています。「キリスト教は、楽観的ですね」そう言われかねない、世の中の状況にあります。
しかし、それでも私たちは、今日この日、主イエス・キリストの御復活を祝い、讃美する礼拝を捧げます。そして、代々のキリスト者たちが、その時々の状況において、イエス・キリストの復活の聖書の言葉に力づけられたように、私たちも、新たな思いをもって今日この聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。
イエス・キリストの復活の物語は、その墓の石が取り除かれるところから始まります。大きな石が動かされた。どのような重たい石もどかされる。その重さがのしかかるような死の力であっても、それに打ち勝ったという意味で、石が取り除かれる。言わば、その宣言から始まります。そのことをまず、私たちは、受け止めたいと思います。
そして、そのことを最初に聞いたのは、女性たちでした。マグダラのマリアともう一人のマリア。彼女たちは、イエス・キリストが墓に葬られた際にも、その場に同行しています。聖書の当時の世界では、女性は人数にも数えられないということが、その時代の女性の立場を表しています。しかし、弟子たちが逃げてしまった中で、まず最初に女性たちに、イエス・キリストの復活を告げ知らされます。
また、同じようなこととして思い出されるのは、先週、私たちが共に見た、棕梠の主日の場面。主イエスがエルサレムに入場された際にも、幼子たちがホサナと歌った。いと小さき者の口に、讃美をさずけられた、ということを見ました。この小さな存在たち、弱い存在が、真っ先にイエス・キリストの喜ばしい訪れを知らされて、また、そこから広がっていく、これは、聖書が常に伝えていることであります。その意味で、初代教会、教会が生まれたばかりの頃のクリスチャンたちも、実際自分たちが置かれた、小さな存在としての状況の中で、多いに励まされ、またそれによって支えられた点であると思います。
ここで、彼女たちが天使から告げられた言葉、それは、主は死者の中から復活されたということです。そして「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(28:7)とのことを弟子たちに告げなさい、という言葉でした。それまで従っていた弟子たちは、イエスを見捨て、ここでは、もはやその姿はないのですが、イエスの方は彼らを見捨ててはおられないのです。彼らと出会うために、復活された主イエスは、既に向かっていると。先にガリラヤに行かれると。
ガリラヤ、それは、エルサレムの都とちがい、人々の生活の息づくところ。ガリラヤ湖のほとりで、生活を営む人々が、日々労働をして、家族と共にくらしている、そういう生活の場です。それがガリラヤに象徴されることだと言えます。その意味で、私たちにとっても、現実の生活の場で主イエスが現れてくださるということが示唆されているのではないでしょうか。復活された主イエスは、さらには弟子たちよりも先に、人々の生活の中へ、人々が生きるということにおいてひたむきに生活している、そのただ中へと向かわれた。そのことは、自ずと、主イエスが私たちに深く寄り添われているということを示しています。
さて、今日のマタイによる福音書の箇所を、もう少し注意深く見ると、マルコによる福音書と非常に似た形で、話が進められています。復活の知らせを告げる白い衣を着た若者は、マタイの方では天使になっているなどの、多少の違いはありますが、だいたいは、「その方は、復活されて、ここにはおられない。ガリラヤにてお目にかかれる。」と、女性たちは告げられたことが記されています。また、それを弟子たちに伝える役目を担います。
しかし、マタイ福音書に記された通りに読むと、一つ大きく異なるのは、復活された主イエスは、ガリラヤにて出会われるはずが、先にマグダラのマリアたちに姿を現されています。主は「おはよう」と言って、彼女たちの前に立たれます。この言葉は挨拶の言葉ですけれども、元は、喜ぶという意味の言葉。そのような喜びの挨拶をもって、主は突如彼女たちに声をかけられるのです。彼女たちにとっては、天使に告げられた約束の言葉を弟子たちに告げようと、走って向かっていく途中の出来事でした。ガリラヤにて復活の主に出会うために、その目的の場所に向かう途中の出来事でありました。この物語を聞き、思いめぐらす時、それは、私たちの途上の歩みにおいても、主は配慮をもって出会ってくださるお方であるということができるのではないかと思うのです。
主イエスの十字架の出来事は、特に主イエスに従おうとした人々には、非常につらい現実であったはずです。私たちも、悲しみの出来事に遭遇し、頭が真っ白になるということがあると思います。そのような時、信じるということについても、実感がなくなることがあり、信仰の現実味がなくなってしまうことがあると思います。ともすればそのまま、無感覚のまま時が流れてしまうこともあるのではないでしょうか。
しかし、神様の側からの呼びかけがあるのです。特に、今、このマタイ福音書の話の文脈に即した順序から言えば、ガリラヤにて復活されたイエス・キリストと出会うという先の目的があり、ある意味で完全な形で主とまみえるのは、まだ先のことであるのですが、その途上において、主の配慮がある。目的地に着くまでにはまだ、いろいろと解決されなければならないそのさなかにあって、主は、温かい励ましと支えを与えてくださるということではないでしょうか。
復活を信じる。それは、復活の「力」を信じるということです。それは、この世界が、混沌とした出口の見えない中で、人々を脅かすような形で進んでいくのではなく、神の愛されるこの被造物世界に、「神の力」が働いていることを信じる信仰です。それ故に、どのような状況であったとしても、絶望することはないということを信じる信仰です。
私たちは、受難節、また先週の受難週を共に過ごしてきました。その中で感じたのは、私たちが置かれている状況が、日々刻々と変わりゆくことに不安を覚える中で、なにか状況と重なるようにして受難週を迎えたということでした。特にそのような中での金曜日の受難日夕拝の時を守り、イエス・キリストが十字架に掛かられ、死の極みへと着かれたその姿が、いつもの年とは違った形で、私たちの目の前に迫ってくるように感じられました。この全世界が苦しんでいる状況にある中で、安易な希望や慰めとは全く異なる仕方で、示された十字架。
復活された主イエスには、その十字架の傷がありました。「おはよう」と言われて、主イエスの足元にひれ伏すようにすがったマグダラのマリアたちも、その傷を見たはずだと思うのです。その傷こそが、「あなたたちと共にいる」、この現実と共に私はいるとの印であると、そう語りかけてはこないでしょうか。
私たちの現実に、また日常の生活と営みのただ中に、これ以上ないほどに寄り添われ、そしてなお、神の力が働いていることを示して下さる主イエス。そしてまた、私たちが、その旅の途上おいて、仮に信じ切れなくとも、配慮に満ちた喜びの声をかけて下さる主イエス。
その中で用いられたのは、まさに弱く小さな者たちであったと伝えています。そこから喜びが広められていったことに、私たちはもう一度耳を傾けたいと願います。どうか、置かれた状況の中で、新しい力、死から復活させた神の力を心に留めて、復活祭のこの日から新しく歩み始めたいと思います。
また、今日、この時、社会の中で主の助けを最も必要としておられるところに、主の御手の平安と主の善き導きがありますようにお祈りいたします。
(2020年4月12日 イースター礼拝 説教要旨)