《 マタイによる福音書 9章35~10章4節 》
マタイによる福音書10章には、十二人の弟子たちの名前のリストがあります。「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」(10章2~4節)。
マタイによる福音書の場合は、読んでいるとテンポよく二人ずつの組になっています。ここでは、弟子たちを二人ずつの組にして伝道に派遣したということが伝えられていると同時に、弟子たちがそれぞれ、別々にイエス様につながっていったというよりも、もう少しお互いの横の関係性があって、協力しあう関係の仲間であったということが読み取れるのではないかと思います。特に、マタイ福音書は、教会というものを考えて書いているので、そういう意味で、教会という集まりのモデルとしても読むことができるのではないかと思います。
そして、弟子たちの名前の前に、説明が加えられている箇所が目に留まります。もちろんイエスを裏切ったイスカリオテのユダという説明もすぐに気が付きますが、その他にも、徴税人のマタイ、熱心党のシモンと、ちょうどカタカナの名前の中にそれらの説明があります。例えば徴税人について注目してみると、当時、徴税人と言えば、それはローマ帝国に収める税金を取り立てる者で、同じユダヤ人であっても周囲から嫌われる存在でした。一方、熱心党というのはどうでしょうか。彼らは、ユダヤの民族主義的、国粋主義的な団体でガリラヤを中心に活動していました。熱心党ということからも想像できるように、ローマからの独立を考えていました。ですから、彼らからすれば、ローマのための徴税人などというのはその手下になりますから、許しておくことができないような相手ということになります。徴税人と熱心党、これはもう水と油のような関係という訳です。
マタイ福音書では、弟子たちのリストの中に、このように本来であれば共存しえない言葉が出てくるのですが、主イエスは、そのような彼らをも弟子として招かれた、ということが書かれています。また、逆に、そのことが教会に対して提示されている、ということですから、これは意味深いことだと言えます。
さてイエス様は、ご自身の働きを、病の癒しなども含めて、そのままこれらの弟子たちに委ねられたことが最初に出てきます。そして、さらに十二人の選びの直前の箇所を見ると、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」というイエス様の言葉があります。つまり、イエス様は、まず状況をご覧になっているのです。当時の状況を見て、深く憐れまれた、といいます。状況があっての弟子たちの選びであり、弟子たちの派遣ということです。
また、特に主イエスが「深く憐れまれた」という言葉に注目すると、この言葉は、人のはらわたと関係していて、日本語でいえば、断腸の思いという言葉の感覚に近い言葉です。福音書の中では、イエス様について、この言葉がところどころで用いられています。「はらわた」が感情の座であるということについて少し調べてみると、元々は、離散のユダヤ人たちの中で生まれた感覚の言葉らしいのです。つまり、国を失い、お互いが散り散りになった境遇において、それでも共通の感覚を持ち合わせている。住んでいる国や地域もバラバラになって世代も代わってしまえばもはや赤の他人、というのではなくて、人間らしい感覚をお互いが共有することができる。それは、あなたも私も同じ内臓を持つがゆえに、同じ感情を抱くという意味で共感共苦し得る。そういう離散のユダヤ人の長い歴史の中で用いられた言葉であると理解できます。また、もしこの言葉と逆の言葉を考えるとすれば、エゼキエル書の中の「石の心」(11章19節)という言葉のように、血の通わない、感覚のない心ということができるのではないかと思います。
そのようなことからふと思い出したのは、『ヴェニスの商人』というシェイクスピアの物語のある一場面。(ヴェニスを舞台とした喜劇で、アントニオという人物が、友人が結婚するために、悪名高いユダヤ人のシャイロックに金を借りに行きます。彼は金を借りるために、指定された日までに返すことができなければ、彼自身の肉一ポンドを与えなければいけないという条件を巡っての話。最終的には、大どんでん返しで悪者が負けるという拍手喝采の物語)。この物語は、ユダヤ人が露骨に悪人としてステレオタイプ的に描かれ、また、最後は勧善懲悪的な喜劇であるため、ユダヤ人問題としては批判的な評価を免れない作品なのですが、その中で、ユダヤ人商人シャイロックのある名場面のセリフが、ひと際鋭く響きます。このようなセリフです。
「何のためだ?ユダヤ人だからさ(中略)ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい? 手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい? 同じものを食ってはいないというのかね、同じ刃物では傷がつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では治らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもキリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 針でさしてみるかい、我々の体からは血が出ませんかな? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに遭わされても、仕返しはするな、そうおっしゃるんですかい?
」(第三幕 第一場)※『シェイクスピア全集5.ヴェニスの商人』福田恆存訳、新潮社、1965年、73頁。
人間としての感情を持ち合わせていないとでもいうのかとの言葉が、ユダヤ人に限らず、恒常的に差別を受けている側の切々とした訴えとして響き渡ります。そしてその中で、真っ先に、臓腑あるいは、はらわたと訳される内臓という言葉が含まれています。同じ内臓を持つ者、それはそれを忘れたかのような者が、相手に対して人間らしい眼差しを取り戻す視点です。石のように冷たく血の通わない心ではなく、内臓に座する感情をも共感し得る心。
今、福音書の中で、イエス様が、そのような意味で「深く憐れまれた」というのは、「飼い主のいない羊の群れ」に対してでした。つまり、この先、どこへ向かってよいのかわからない、そういう、人として当然おぼえるであろう不安の中に置かれている人々の状況に対して、深く寄り添われる思いを抱いておられたことがわかります。それを、全身で、我がことのように思っておられる主イエスの姿があります。
実はマタイ福音書が、この箇所を書こうとしたときに、旧約聖書のある個所が念頭にあったと言われています。それは、モーセが後継者であるヨシュアを任命する箇所です。「主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。主はモーセに言われた。『霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き、(中略)彼らの見ている前で職に任じなさい。』」(民数記27章17~19節)。モーセの働きがそのままヨシュアに引き継がれること、また、飼う者のいない羊の群れや、選んで職に任ずる、といった言葉も似ています。そして、マタイ福音書が考えているのは、同じようにイエス様の働きがそのまま弟子たちに委ねられている、すなわちイエス様の働きが教会に与えられ、委ねられているということだと言えます。
少し前に、週報の「今週の祈り」の中で、「世の中の破れに主が立ってください。そこにイエス様が立ってくださいますように」というお祈りがありました。「破れに立つ」とは、どちらかと言うとあまり日常的には使わない言葉だと思います。聖書の中では、例えば詩編106編を見ると、出エジプトの出来事の振り返りと共に、人々を率いたモーセのことが書かれています。「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(詩編106編23節)
ここに、モーセが破れを担うという言葉が出てきます。口語訳では、「破れ口」と訳されています。破れた所、ほころんだ所。また、ここで「立つ」というのは、立ち続けるという意味です。モーセが、神と人々のとの間に立ち執り成しをし、また、そうし続けたという箇所は、イエス・キリストと重なる姿があると言えます。
私たちの社会の中で、主イエス・キリストがその現状をご覧になり、破れ目に立ち続けておられる。さらにまた、そのようにして世の破れ目と、そのほころびに立ち、ご自身が裂かれてでも守るようにして執り成しておられる。聖書からそのように言うことができると思います。
そして主イエスは、今日の箇所では、その働きをそっくりそのまま弟子たちに任せられたことが告げられています。そして、それは同時に、後の世代の、主イエスに従う一人一人に、その働きをお任せになったのだということを伝えようとしているのではないでしょうか。
私たちの生きる社会には、多くの憂いがあり、一人の力ではもはやどうすることもできないようなことが、各方面において起こっているのが現実です。しかし、私たちのできる仕方で、主の働きを担っていくことについて、教会がそれを担うことを聖書は伝えています。厳しいながらも、それが主から与えられた働きであると。そして、呼び集められた者たちはバラエティーに富んでいて、その中には、当時の徴税人もいれば、熱心党もいた。そのことが、逆に強みとなって、互いに強め合う関係となり、主の弟子たちとして、主イエスの下に一つとされていく。そのことが伝えられているのではないでしょうか。主に赦された一人一人の集う教会を感謝し、またそこに働かれる主の不思議な御業をこころに留めて、私たちも歩んでいきたいと思います。
私たちの社会が、日毎に多くの不安を覚える状況にある中で、どうか主イエスがその破れ口に立ち、今日も執り成してくださいますようにお祈りいたします。
(2020年2月16日 礼拝説教要旨)