子どもを招くイエス様(子どもの祝福の祈り)

《 マルコによる福音書 10章13~16節 》
 先日、東北地方にある教会の牧師が書かれた文章の内容が目に留まりました。その教会では付属の保育所があって、牧師はその園長でもあるとのこと。ある年のクリスマス会の時に、一人の保護者からこう言われたそうです。「園長、いいクリスマスだったなぁ。でも、一つだけ頼みたいことがある。あの足の不自由な子を隅っこでなくて真ん中で踊らせてやってほしい。危なくないように隅っこだったとか理由はあったんだろうけど。他の園なら隅っこだっていうのも納得するけど、ここはキリストだべ?」。青森の言葉でそう言われたそうですけれども、園長でもあるその牧師は少し驚いたといいます。親御さんたちは、普段は教会にあまりなじみがなくても、「他の園とちがって、ここはキリスト(教)だから」と言われる。そして、その足の不自由な子どもを隅っこではなくて、ぜひ真ん中で踊らせてあげようよ。だって、イエス様の教えって、そういうことじゃないの?キリストだべ?と逆に言われ、日頃からちゃんと伝わっていたことを実感し、その申し出が嬉しかったのだそうです。実際、そこには、車椅子に乗った子どもが舞台の真ん中で、嬉しそうに他の子どもと手をつないで踊っている写真が載っていました。弱く、小さく見える子どもに、優しい眼差しを注がれるのは、まさにイエス様の視点そのものと言えます。<※1>
 イエス様が子どもたちを祝福している絵などを見ると、一人一人の子どもたちのために祈られている姿が描かれていて、温かい雰囲気が伝わってきます。今日の聖書の箇所も、まさにそのような場面であると言えます。しかし、今日はその周囲の状況にも、目を留めてみたいと思います。
 当時、イエス様のことが広く知れ渡るようになり、人々は、イエス様に触れていただきたいと願って、子どもたちも連れてきました。しかし周囲にいた弟子たちは、子どもたちを追い返そうします。「だめだ、だめだ。イエス様は忙しいお方なんだから」そのような声が聞こえてきそうです。当時、ラビ(先生)と呼ばれる教師たちは、人々から敬われて畏れ多い人と見なされ、さらにイエス様の知名度が上がれば、弟子たちもそういうお方の弟子であるということで、偉くなった気分がしたのかもしれません。そういう弟子たちを、イエス様はお叱りになりました。「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」(14節)。
 イエス様は、弟子たちに対して、偉くなりたいという意味で上を目指すという方向から、今、180度向きを変え、子どもの姿を見るようにと言われます。私たちは、どちらかというと大人になるということに注目し、「発達」「成熟」ということに、場合によっては過度に目標を置いてしまうところがありますが、イエス様は、ここでありのままの子どもを指して「子どものように、神の国を受け入れる人でなければ」と言われています。これは、とても大切なことではないでしょうか。またイエス様は、少し前の箇所でも、弟子たちが、誰が一番偉いかという議論をしている際に、彼らの真ん中に子どもの手を取り抱き上げて、子どもの存在を示されます。そしてイエスを信じる信仰と子どもたちとは切り離すことができないということを言われています(マルコ9:33~37)。
 さて、「子どものように」という言葉に、私たちはどのようなことを連想するでしょうか。身の回りに不思議なものを見つけると目を丸くし、計算することなく純粋な心で反応するというのは、子どもならではの様子だと思います。多少理想化された子どもに対する見方もあるかもしれませんが、それでもやはり大人になると失ってしまいがちな大切な部分かもしれません。また、例えば子どもたちと夏期学校のキャンプに出かけた時のことなどを思い出すと、子どもたちはその日一日を思いっきり遊び、夜になると電池が切れたように眠ります。その日に100%エネルギーをフルに出し切って、夜はすやすやと平和な寝顔で休む子どもたちの姿が目に浮かびます。それもまた「子どものように」ということの一つかもしれません。
 しかし、全ての子どもたちが健康でそのように過ごすことができるのではないことも、現実として私たちは知っています。メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンという団体を皆さんは聞いたことがあるでしょうか。これは、特にキリスト教を謳った団体ではありませんが、この団体は、難病の子どもたちの夢をかなえる(英語でメイク・ア・ウィッシュ)働きをし、アメリカで最初に始まり、今では日本を含む世界42か国で活動をしている団体です。「病気であっても喜んだり、笑ったり、挑戦したりできると気づき、生命の質を高めていく」ことができる。そのことを大切にし、一人の喜びが周囲の人々の心にも広がっていくのだといいます。
 例えば清水美緒さんの夢は、自作の絵本を出版することでした。動物たちの絵を描き、そして自分と同じように病気と闘っている子どもたちを励ましたいという気持ちから、絵本が出来上がった日には病院に100冊贈りたいと言われ、その気持ちを、絵本に添えたしおりにも記しました。「つらいのは きみひとりだけじゃないよ みんなでいっしょに がんばっていこうよ」。美緒さんは、その絵本が出版される前に天に旅立っていかれましたが、絵本を人々が買って、その売り上げが自分と同じような子どもたちの夢を叶えるために使われることを知って、とても喜んだそうです。その思いは本当に尊い者と思いますし、美緒さんは、将来大きくなって何かを成し遂げるという歩みをされたのではありませんでしたが、その瞬間、その瞬間で花開き、輝いていたと思うのです。<※2>
 聖書の言う「子どものように、神の国を受け入れる人」。それはきっと、神様から与えられた賜物を用いて、生かされているその日、その日を精一杯生きようとする姿にあるのではないかと思わされます。また、そうだとすればイエス様が、そのような子どもをさらに祝福されていることに励まされます。既に与えられている賜物を、私たちが、小さな形でもその時々において十二分に用いようとする時に、神様はそれを豊かに祝福され、私たちも神の国に近い者としてくださることを心に留めたいと思います。
 今日も変わらず、イエス様の御手が一人一人の命を支えてくださいますように。社会の中で子どもたちが大切にされ、特に悲しみの多い社会の現実に、神様の慰めと回復が与えられますように。私たちそれぞれに委ねられた小さな働きを、今日も為すことができますようにと祈ります。
(2019年11月10日 礼拝説教要旨)

<※1>『信徒の友』2015年6月号p18~19(木造保育所園長、千葉敦志牧師)より
<※2>『信徒の友』2002年8月号p68~69(メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長 大野寿子さんインタビュー)より