《 マルコによる福音書 7章24~30節 》
10月第一日曜日は、教会では、世界の教会と私たちが一つであるということを心に留める「世界聖餐日」に定められた日です。特に、聖餐というパンと葡萄酒を受けることを通して、私たちは世界にある教会と共に、同じ一つの体でありそれぞれがその部分であるということを、心に留めます。日頃、自分たちの教会のことだけに気持ちが向きがちですけれども、このような意識は大切であると言えます。
そのような中、今日私たちに与えられた聖書の箇所は、シリア・フェニキアという地方の女性とイエス様が出会われたという箇所です。その場面を見ていきたいと思います。
この箇所は、実は少し疑問が残る箇所として知られています。イエス様は、フェニキアという北の方にある、遠方の異国の地へ出かけて行って、そこで異邦人伝道をされるかと思いきや、家族の病の癒しを願い出た女性に対して、それを拒むようなことを言われます。
「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」
これは、いったいどういうことでしょうか。イエス様の言葉は、何かユダヤ人を優先し、異邦人を退けているような意味として聞こえます。しかし、最近、徐々に聖書に書かれている背景的なことが分かるようになり、難しいと言われる聖書の箇所も部分、部分ではありますが、少しずつ分かるようになってきました。
この箇所にある、フェニキアのティルスは、当時、都市としてより栄えていたのですけれども、その郊外に住む人たちは、貧しい生活を強いられていた状況であったといいます。地域的な格差の事情があったわけです。また、その都市近郊の地域では、都市の消費生活を支えるために人々が犠牲になっているという状況であったことが分かってきました。ですから、都市のために地方が貧しくされているという現状があったということです。
そして、イエス様は、ティルスの地方に向う途中、その近郊に点在するようにして、また、身を寄せ合うようにして暮らしていたユダヤ人たちの集落を訪ねました。そのように、貧しい人々のところへとイエス様は向かって行かれたというのは、イエス様ご自身のことを考えると想像できることです。
そういった状況の中で、日頃から、その不公平さを感じている人々の側にイエス様は立って、まず、彼らが十分に食べてからだと言われた。そのことが、「まず、子どもたちが十分食べてからだ」という意味になります。そうだとすると、「食卓のパン」を巡る会話から、イエス様が、地方で犠牲になって苦しむ貧しい者の側に、直感的に立っておられるということが分かります。
さて、この女性は、その主イエスの先の言葉を逆手にとって、即座に機知に富んだ返答をします。「主よ、しかし食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。当時も家庭の中に小犬がいて、一緒に生活していた風景が目に浮かびます。聖書の中では、どちらかというと犬はあまり良いイメージの動物ではないのですが、「小犬」と書かれている場合には、野良犬と違って、家庭の中で飼われている愛着と親近感のある小犬のことを、愛称で呼ぶように指しているとも言われます。当時も、そのようにして人々は動物と共に暮らしていました。
そして、その小犬も、テーブルからこぼれ落ちるパンくずは頂くではないですかと、この女性は願い求めます。とっさに出たこの言葉は、信仰的な言葉でした。生活の中の風景の言葉ですけれども、そこにはある種の神学があります。つまり、神様の恵みは、食卓の上にもあり、そしてこぼれ落ちるほど溢れるばかりにある、と。神様の溢れる恵みについて、この女性の言葉が、実に的を射た言葉で言い表しているのです。主イエスは、その言葉によって行きなさいと言われます。実は、新共同訳の「それほど言うなら、よろしい」というのは少し意訳でして、この女性の熱心さを考慮しての訳ですが、見方によっては否定的な意味合いにも読めます。元の言葉は、その言葉によって行きなさい。あるいは、その言葉のゆえに行きなさい。文語訳は直訳に近く、また肯定的に訳されています。「汝の言葉によりて、ゆけ」またカッコして、安んじてゆけ、と書かれています。
汝の言葉、すなわち、神様の恵みは食卓から溢れるほどであることを、私は知っています、信じていますというこの女性の言葉は、信仰告白に近いと思います。そして、そのあなたの信仰の言葉のゆえに、既に悪しき霊は出て行ってしまったというのです。
福音書を読むと、弟子たちでさえ民衆を癒すことができなかった、という箇所が出てきますけれども(マルコ9・18)、それを考えると、なおさらこの場面で、この女性の信仰の言葉のゆえに悪霊は既に出て行ってしまったというのであれば、これは驚くべきことではないかと思います。彼女は異邦人でしたけれども、信仰についての理解がありました。それは、おそらく日常の中で神様のことを考えていたからこそ、すっと出てきた言葉ではなかったかと思います。特に、生活の場面と信仰理解が、一つになっているということと言えます。
さて、今日は世界聖餐日の礼拝ですので、世界の教会のことをも考えたいと思います。世界教会協議会(WCC)という集まりがあり、日本キリスト教団も世界の教会と共にそこに加盟していますが、そのWCCの今月の祈りとして、世界の飢餓問題を挙げています。この飽食の時代に、世界の人口の9人に一人が飢餓に瀕している現状があり、さらにその状態に危ぶまれる人々を含めると、実に約26パーセントである20億人に及ぶと報告し、これは世界の教会が祈りをもって取り組むべき課題であると訴えています。
今日私たちは、世界の教会が一つの同じキリストの体に属し、それぞれがその部分であることを心に留めてパンと葡萄酒を受けます。その際、次の聖書の言葉も大事だと思われます。使徒パウロは、主の晩餐について記している箇所で、「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」(一コリント11・21)と言い、それではいけないと記していますが、そういうことが世界規模で見た時にも起こっているということを、やはり心に留める必要があるのだと思います。
世界の状況というのは、確かに、どこか遠くでのことのように思えるのですが、ふと、海外に住む友人牧師のことを思い出しました。留学中に出会ったケマティーさんというケニアの牧師。彼は、ケニアでもおそらくかなりローカルな地域の出身で、彼が話してくれた土地の色々な習慣は、興味深いものがありました。例えば、男性が飲酒することが許されるのは、自分に初めて孫ができた時からであるというルールについて聞きました。それによって、その地域の人々にとっては家族を大切にしていくことや、一定のモラルを保ったりする意味があるのではないかと思います。また、彼はケニアの今日の祈りの課題は、土地の問題だと言っていました。彼いわく、ケニアは土地が痩せていて、様々な緑化プロジェクトが必要であること。またそれが、将来的に国を豊かにする土台となるということを、大きい目をギョロッとさせて熱く語っていました。彼がそういう土地や生活について強い意識を持っていることについて、さらに深い理由があることが分かったのは、ある時、講師であるイギリス人牧師とのやり取りで、こういう話が飛び出した時でした。
「ある時、白人たちがやって来て、祈りましょうといって、祈った。目をあけたら、手許に聖書があった。しかし、気がついたら、その代わりに土地は彼らのものになっていた」。
ケニアがイギリスの43年に及ぶ植民地支配から独立したのは、1963年のこと。彼にとって、また彼の代々の家族や村の人々にとって、それは実際のことであり、そしてまた、そういう中から彼がキリスト教の牧師になったのも事実であるわけです。
今日の聖書の箇所では、ティルスという都市の生活を支えるために、その背後で食料を提供する地域の人々が犠牲になっていたということ。そしてイエス様は、そういう人々のところへ行かれたという箇所である訳ですけれども、きっと、キマティー牧師や彼の村の人たちならば、そういう地域へ赴かれたイエス様に、まず深く共感するのではないだろうかと想像します。
しかし、宣教師たちが来て、彼らが受け入れることになった当時のキリスト教は、言わば「あなたがたは、信仰的なこと、霊的なことで幸福を得ているのだから、他はあきらめてもいいでしょう」というようなものでした。ですから、なおさらキマティー牧師ならこう言うと思うのです。信仰とは何か心の中だけのことのように思われるけれども、それは、土地やそこに生活することと深く結びついていなければならないと。信仰は土地や生活と結びついていないといけない。そういう彼らの望みから、教えられることがあるのではないかと思います。
ひるがえって私たちのことを考えた時、日頃、信仰生活というものを当たり前に過ごしてしまっているところがあるかもしれません。そういう私たちの信仰生活について、やはり改めて考えたり吟味したりすることは大切なことだと思います。以前、隅谷三喜男という人が書いた本の中で、日本人のキリスト教の生活は、「二階建て」のようだとの指摘が話題になりました。二階は信仰生活、一階は現実生活で、住み分けが為されているという意味です。信仰の部分と普段の生活の部分を、うまく分けて生活しているという指摘については、日本人特有のものかどうかは分かりませんが、心当たりがあるように思います。
しかし、特に今日の聖書の箇所においては、日常の生活の言葉がそのまま信仰の言葉になっていることに気づかされます。この女性は、その言葉から分かるように、神様の恵みというものを、食卓という生活の中心の場で捉えているのです。イエス様が、この女性の信仰理解をほめたというその内容は、神様の恵みが、私たちが考えるよりもはるかに大きく、自分たちが考える食卓のその縁からこぼれるほどに溢れ出るものであると。そのことが、女性自らの日常生活における信仰の言葉として発せられ、そして、その言葉のゆえにそれが現実となりました。そこに私たちも教えられることがあるのではないでしょうか。
どうか信仰の言葉と生きた生活の言葉が一つとなり、力を与えられますように。私たちの信仰が心の中だけの信仰でなく、どうか生活の中心に根差した生きた信仰でありますように。
(2019年10月6日 礼拝説教要旨)
※参考図書:『日本の信徒の「神学」』(隅谷三喜男/日本キリスト教団出版局)、『新約聖書解釈の手引き』第3章 社会史的研究(須藤伊知郎/日本キリスト教団出版局)