神様の側から

《 ダニエル書 10章8~11節、使徒言行録 12章6~17節 》
 キリスト教の特徴を一つ挙げるとすれば、それは観念的な宗教ではないということだと思います。何か瞑想の中のような、頭の中だけの宗教ではないという意味です。一言で言えば、イエス・キリストを通して神様がこの世に介入され、そのことによって、私たちに「近づいて」くださいました。
 詩人の星野富弘さんは、ある詩の中でこう表現されました。以前にも触れたことがあったと思います。「私は傷を持っている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる」。不慮の事故により体に大きな障がいを負われ、そのような中、筆をくわえて詩と絵を描くようになった星野富弘さんですが、「私は傷を持っている」というご自身の体と、また、イエス・キリストの受けられた傷が不思議な形で、つながっていることをこの詩で言われているのだと思います。「でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる。」傷というのは、体があるから傷ができ、そこが痛むわけですけれども、聖書が示していることは、神様がそのように傷を負って痛まれ、そのようにして、イエス・キリストを通して私たちとつながってくださったということ。これは神様の側からの、私たちへの「接近」と言うことができると思います。
 そして、ある意味で今日の聖書の箇所も、神様の接近について書かれている箇所と言うことができると思います。今日の箇所には、ペトロの身に起こった不思議な出来事について書かれています。
 教会が興って間もない当時、キリスト教に対する迫害はいよいよ強くなり、エルサレム教会の中心的な存在であったペトロが捕らえられました。そのことに皆は不安をおぼえ、ペトロのために熱心に祈りが捧げられていました。そのような中、場面は、衛兵たちが何重にも取り囲むエルサレムの牢屋の奥、ペトロが鎖でつながれています。そしてその彼が、不思議な仕方で救い出されたといいます。主の天使が、ペトロのそばに立ち、疲れて眠っていた彼の脇腹をつついて起こし、そして彼は、夢の中にいるような心地で天使に従うと、気がつけば牢屋の外に立っていました。そして、大勢の者が彼のために祈っていたところへ行き、神様が為さったことを皆の前で説明したということが書かれています。
 祈りが聞かれたことに勇気づけられた教会の様子から、教会が祈ることの大切さを教えられる箇所の一つでもあります。そして、ここは特に、天使によって脇腹をつつかれて起こされたペトロのその出来事が、印象的な場面です。
 また、旧約聖書のダニエル書にも、似たような場面が出てきます。ダニエル書10章には、ダニエルが疲れて横になっているところに、突然一つの手が彼に触れて、彼を引き起こしたことが書かれています。彼は、その際、「愛されている者ダニエルよ」との声を繰り返し聞きました(10章11、19節)。そうして彼は、それまでの歩みが、神の前に届いていることを告げられ、再び力を取り戻していくのです。
 ダニエルも、ペトロも、肉体において、打ち倒されたような状態にありました。そのような状況にあって、「触れられる」という経験は特別なものであったはずです。単に頭の中のことでもなく、また声が聞こえてきたというだけのことではなく、実際に、触れられた。そのような仕方で主が接してくださったということです。きっと自分の脇腹をつついて起こされたという感覚は特別なもので、後に思い起こした時にも、忘れられないものであったのではないかと想像します。そして、ちょうど「主から愛されている者よ」、とダニエルが語りかけられたように、その脇腹の感触を思い起こしたのではないでしょうか。
 そして、このことを聖書全体から見ると、主イエスを通して示された神様の愛に、共通したものがあります。神はその独り子を賜ったほどに世を愛された(ヨハネ3章16節)ということは、人間世界とは別の、遥か遠いところから人を見ておられるというのではなく、人に急接近されたということです。イエス様がこの地上に来られたのは、そのように私たちの近くに来られたということ。それはもう、私たちの脇腹をつついて、私たちの信仰を起き上がらせ、目覚めよと言われているに等しいことだと思います。神様の側から、私たちに介入され、触れられ、脇腹をつつかれた。それは、「主の愛に気付いているか」という意味でのつつきであり、これは、私たちにとっては正に不意をつかれた出来事ではないかと思います。
 まだ牧師になる前に、神学校に通っていた頃のことを思い出しました。私の通っていた神学校は夜学であったため、今もそうですが、神学生の多くは昼間のそれぞれの仕事を終えてから、授業や礼拝に間に合うようにして集まってきます。私も当時は、日中アルバイトをして、神学生の生活をしていました。ある日の礼拝の時に、いつものように仕事を終えて滑り込むように校舎の隣にある古い礼拝堂に入り、後方の席に座っていました。その日の説教者や聖書箇所などは、もう覚えていないのですけれども、きっと数時間前までしていた仕事のこと等から頭の中が切り替わっていない状態で、漫然と講壇の方を向いていたのだと思います。ふと講壇の背後の壁の模様に目が留まり、そこに木目の色の違いだけを利用した、落ち着いた簡素なデザインの十字架があるのに気がつきました。普段、見ていたはずなのですけれども、それまであまり意識していなかったのです。それで礼拝の途中に、ふと「あ、十字架だ」と思ったのでした。普段見ているようでいて気がついていなかったということに、小さなことでしたけれども、はっとしたわけです。また、そういう自分が滑稽にも思えました。やはり現実の雑多なことに埋もれてしまっている自分がいるということに、木目の十字架を見て、気付かされたわけです。それは、単に十字架の形ということでなく、そこに示された神様の愛があり、また、その後何度も思い返す中で、そのようにして、向こう側からこちらに接近して下さる方であることを強く意識させられた出来事であったと思います。
 聖書には、イエス様が訪ねてくださる話が多くあります。「急いで降りてきなさい。今日あなたの家にとまろう」とザアカイに言われました。また暗い顔をして歩いていた二人の弟子たちにも、道すがら突如並んで歩かれた、エマオ途上での出来事。どれもイエス様の側から急接近されたことを、私たちは思い出します。そこに神様の私たちに対する思いを読み取ることができるのではないでしょうか。
 さて、ペトロは、最初、身に起こったことが夢か幻かというような状態でしたけれども、仲間の集っているところに戻ると、それが、はっきりとした現実であるということを認識します。取り戻したように、信仰と現実とがしっかりと一つに結び合わさっていることがわかります。そういったことからも教えられることがあるのではないかと思います。
 私たちも一週間を過ごす中で、その途上においては現実の生活に埋もれ、場合によっては信仰のことが何か遠い世界のことのように思える時もあるかもしれません。しかし、一週間の旅路を経て、再び教会の礼拝に戻って来た時に、私たちは、もう一度十字架に示された、愛された者としての現実に気付かされる思いがします。また、そのための礼拝であり、教会ではないでしょうか。そのようにして私たちは、何度でも、呼び起こされていきたいと思うのです。そしてまた、ペトロやダニエルのように、この時期、病や痛みを得ている私たちの心にある友に、どうか主の御手が触れてくださいますように、お祈りいたします。
(2019年1月27日 礼拝説教要旨)