《 ルカによる福音書1章26~45節 》
待つということが得意という方はおられるでしょうか。私自身は、待ち合わせの時などには、つい相手を待たせてしまうことがよくあります。今は携帯電話で、「ごめん、ちょっと遅れる」という連絡が容易にできる時代。それに甘んじてしまっているのかもしれません。昔は、駅には伝言板というものがありました。利用にあたっては、そこに書かれていることを信じなければなりません。なかなか会えないと、これは本当に当人の字だろうか、誰かほかの人の字ではないだろうかと疑いも生じ、内面において不安と戦いながら待つということもあったかと思います。また、約束した側も、気軽にキャンセルができませんから、それを果たす責任が生じます。特にその昔は、手紙という紙による連絡手段しかなかったことを考えると、信じる、また守るということには責任が伴い、また、お互いの関係性を築いたり、保ったりする上で、約束するということ自体が今以上に重みを持ったのではないかと思います。そう考えると、昔と今とでは、待つという感覚も違ったのではないでしょうか。
昔、学校の国語の教科書で読んだ、「走れメロス」の物語を思い出しました。悪い王様に捕まったメロスは、三日間の猶予を懇願し、妹の結婚式の義務を果たして帰ってくることを約束します。王は、彼の友人がその間人質になることを条件にそれを許します。幾多の難を乗り越えて、もうだめだと思いながらも、倒れ込むようにして日没直前に駆け込んでくるメロス。約束を果たしたメロスに対して、待っている間に一度だけ、疑いを持ったことを告げて謝る友人。この二人の篤い友情の物語の原作は、古代ギリシアの伝承にあるそうですが、その最終場面では、それを見ていた王も心打たれて、自分もその友情の仲間に入れて欲しいというところで物語が閉じます。待つということには、何か新しいことを生み出すエネルギーがあるようです。
また、古代においては、「友人」という関係は、なんとなく友達という関係ではなくて、両者がはっきりとした形で確認し、公に知られて初めて友人という関係になりました。イエスが、「私はあなた方を友と呼ぶ」と言ったのもそういうことだったのだと思います。なんとなく友達だからお互い優しくするというようなことではなく、お互い「友達」であるから、たとえメロスのような状況に遭った時にも、決して裏切らないという関係であるという関係性です。そういった中で、「友と呼ぶ」と言われたイエスとイエスの弟子たちのことをもう一度考えると、弟子たちの側は、その友という関係を自ら裏切り、友であり続けることができなかった人々でしたが、イエス様の側は、弟子たちのために自分の命をも捨てるほどに、友であり続けてくださった。そのことの意味が、友という関係を考えるとなお伝わってきます。
さて、待つということに戻りますが、聖書では、信じて待ち続ける人々のことが多く書かれています。そして、単純に待つということだけではなく、待ち続けるという過程自体にも注目されているように思います。たとえばマリアは、「お言葉通りこの身になりますように」と、み使いの言葉を信じました。受け入れるという意味では一見、受け身であるようですけれども、彼女は実際それを信じ続けなければなりませんでした。お言葉通りになりますように、というマリアのその言葉は、常に彼女の中で自らに言い聞かせる言葉となったと思います。大切なものを落としたり、無くしたりすることがないように、それを保つために、自ら持ち続けなくてはなりませんでした。その意味で、能動的なことであったと思います。
また、マリアは、エリサベトという洗礼者ヨハネの母が同じ境遇にあることを知らされ、訪ねに行きます。そこでは、お互いの存在によって孤独も癒されて、励まされている様子がわかります。二人、三人が私の名によって集うところに、私もその中にいると、イエス様は言われましたけれども(マタイ18・20)、信じる群れというものを、神様は、大切に見ておられると思うのです。また、そこに、私たちも教会の姿を見る思いがします。
クリスマスは、待ち望むことの象徴であるように思います。最後にそのことにまつわる、少しあまい話。クリスマスの前の4週間をアドベントと言いますが、キリスト教が生活に文化として根付いているところでは、それが日常生活に密着しているようです。たとえばイギリスではアドベントに入るその前の日曜日に何をするかというと、クリスマスに食べるケーキ(Christmas
pudding)の仕込みをします。レーズンやりんごなどの果物類を細かく切り刻んで、ボールの中でかき混ぜることから、その日をスターアップ・サンデイ(Stir-up
Sunday)と言います。スターはかき混ぜるという意味で、食材を入れてかき混ぜることをもって、クリスマスの準備をいざ開始する日曜日という意味です。
また、おそらく混ぜ込むというところに少し意味があって、これは台所の神学といっていいかもしれませんが、日常生活の中の色々な思いをそこに混ぜ込んでいきます。日々の中で見つけた小さな喜びや、今考えていること、また先のことについてなど、そういった気持ちを、材料と一緒に混ぜ込み、熟成させる。そうすることによって深い味わいがでてきます。そして、その際に重要になってくるのがシナモンなどのスパイスです。全体にいきわたるようによく馴染ませます。私たちは、食材をただ単にかき混ぜるのではなくて、御言葉というスパイスにからませ、待ち、熟成させます。私たちの日常抱えているあれこれのことが、御言葉と相まった時に、私たちのうちに変化が生じます。どうかそのようにして御言葉のスパイスに豊かにされた、味わいのある、私たちの生涯の歩みでありますように。
(2018年12月2日 礼拝説教要旨)