《 ヨハネの手紙一 4章16節~5章5節 》
私たちの日常において、何かちょっとしたことだけれども、それを意識するのとしないのとでは、大きく違うということがあると思います。信仰においても、努力のうちには入らないけれども、鍵となるような大切なことがあるとすれば、それは「想像力」ではないでしょうか。
今日の箇所には「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(20節)とありますが、このことにはやはり想像力が必要になってきます。目に見える周囲の人との関係が、目に見えない神様との関係とつながっているというのです。確かに私たちは、そのように示されなければ、おそらく目に見える世界にだけ埋もれ、それ以上のことを考えることはしないかもしれません。しかし聖書は、それを実際に想像してみなさいと言います。
同じように、「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(17節)とあります。これは、元の言葉では「彼(イエス)がそうであったごとく、私たちもそうであるから」となっています。つまり、イエス・キリストが実際に私たちと同じように、この世で生きて生活をし、歩んだということを言っている訳です。このことは、イエス・キリストが私たちと同じような体をもって地上に来て下さったということなのですけれども、イエスがこの地上を歩まれたということについて、日頃私たちは、どういう場面でそれを思い起こすでしょうか。私たちが身体の不調を訴えている時、あぁ、今日は何か体の調子が悪いなぁと思う時、果たして私たちは、イエス・キリストも同じように肉体をもってこの世を歩まれたということを考えるでしょうか。意識しなければ、具合の悪さだけで、ふさぎ込んでしまいがちです。私たちの意識の中に届けてもらわなければ、きっとその日、一日、辛い状況を一人で通り過ぎるのを待つだけで終わってしまいます。
しかし、もしイエスも地上の歩みにおいて人として同じように苦しまれたのであれば、この自分の経験する辛さというものに対して、違った角度から見る可能性が開かれてこないでしょうか。とかく私たちは隣人に対して、またイエス・キリストに対して、扉を閉めてしまいがちです。しかし、聖書の御言葉というのは、人がそのように完全に閉めてしまい、冷え切ってしまう前に、ちょっと想像力をもって考えてみませんかと語りかけてくるように思うのです。
私たちの身の周りのことに目を向けると、ニュースでは毎日のように痛ましい事件が報道されています。ある作家は、その後につづく真相解明のような解説が熱心に延々と報道されることについて、もちろん原因や対策は大切であるけれども、それ以上に人々が、「人間の暗く悲しい現実に直面して涙する、みずみずしい感性を取り戻すこと」の方が、よほど大切ではないか、ということを言ったそうです。情報ではなくて、「人間の暗く悲しい現実に直面して涙する、みずみずしい感性」というものを一人一人が取り戻していくことが、人が本当の意味で共に歩んでいく上で必要だという点に教えられる思いがします。
確かに、隣人愛にしても、また神様に対する愛にしても、現実の私たちはそういうみずみずしい感性というものを持てないでいるかもしれません。現実の世界はそれほど私たちに対して優しいものではないのも事実です。しかし、聖書は、それでも私たちに畳みかけてきます。旧約聖書には、石の心に対して肉の心という言葉が出てくる箇所があります。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。肉の心とは、ここでは石のように固く冷たい心ではなく、血の通う体温のある心という意味です。そして、それは私たちの内側に注がれる新しい霊の働きによるのだということが、聖書に約束されていることを、心に留めたいと思います。
上から注がれるものを受け止めるということについて、宗教改革者のカルヴァンはあるところで、信仰とは器のようなものであると述べています。私たちはよく、信仰というものを「持つ」と言います。しかし信仰とは本来そういう性質のものではなく、恵みを受ける器としては重要であるが、宝を納めている土の壺の方を指して宝と呼んではならないと言います。また、神様の愛を受け止めるための器である以上、それを満たして頂く必要があるということではないでしょうか。常に養って下さるお方に、どのような時にも満たされるようにして、歩んでいくことが大切であると言えます。
今日は神学校日で、その働きを心に留める日として定められています。神学校においては神学の学びだけでなく、実際の実習もあり、将来牧師として立たされるための準備をします。思えば自分もそうしたいくつかの経験をさせて頂いたことの上に、教会の働きに就かせて頂いているということを、この日に改めて思わされます。当時のことを振り返ると、たとえば実習では、神学生たちが通らなければならない言わば難関とも言うべきことの一つに、病院実習というものがありました。これは、神学校に関係のある病院に出かけて行き、入院患者さんに対して傾聴ボランティアのようなことをし、許されれば聖書を読んだりお祈りをしたりするという内容です。患者さんたちも、ある程度、そこはキリスト教の病院であることを理解しておられるところでした。そして病室を訪ねて面会を終えると、夕方学校に戻り、その一日の振り返りを行います。自分が病室で交わした会話を思い出して、できるだけ再現するように記録し、それを基に、どれだけその人に寄り添うことができたかということを指導者と見直す作業を繰り返します。これを数日連続で行うというものでしたけれども、これは心も足取りも、日に日に重たくなる実習でした。というのも、反省の際に、自分が発した言葉と向き合うこと以上に、相手に心から寄り添うというということがいかに難しいかということ、またその限界を知らされる時であったからだと思います。違った境遇にあるもの同士が、果たして心を通わせることができるのだろうか。そこには目には見えない厚い壁があることを意識するようになるのです。一度そう思い始めると、自分は何をしたら良いのだろうか、何ができるのだろうかと躊躇し、足取りが重くなるのです。
そのような時に、ある病室を訪ね、お差し支えなければ、お祈りをしてもよろしいでしょうかとお尋ねしたところ、ちょうど握手をするようにその方は手を伸ばされたことを鮮明に思い出します。その男性の方は随分お具合が悪く、起き上がることはできないでおられたのですけれども、こちらがたどたどしくも、しかし主が共におられますようにと、そのまま握手をするような形でお祈りをして目をあけると、その方も大きく目を見開いて、この上なく満たされた表情をされておられました。「体のともし火は目である」(マタイ6:22)と聖書にありますけれども、そのように目を輝かせ、そしてどこに力があるのだろうかと思うくらいに、握力の残っている手で握り返されました。その時のその方のご様子というのは、内側から発せられる「命の輝き」としか表現できないような、そのような最期のご様子であられたことを、今になって思い起こします。
今日の聖書の箇所には、神は愛であり、神もその人のうちにとどまって下さるとあります。そして、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(18節)とあります。神様の愛に満たされる時、あらゆる恐れも、死に対する恐怖も、その完全な愛によって締め出されるということについて、出会いを通して、実際のこととして思わずにはいられません。私たちは、最後の最後まで神様の愛が注がれ続けているということを受け止めたいと思います。
聖書は、人は土の塵から作られたと言い、私たちがどのような存在であるかをも教えています。聖書の初めに記されたそのことの意味は、最後には再び塵に返される存在なのだということを物語っていて、アダムという名前自体が、そのことを忘れないようにということなのかもしれません。「土の塵から作られたような存在」という意味です。しかし、先ほどの器の話から言えば、それは決して虚しいことではないのです。
今日の箇所には、「神の愛がわたしたちの内に全うされるので」ということが繰り返し記されていて、それは、人の信仰という器にこそ、神様がご自身の愛を注ぎこんで下さるということなのだと思います。そしてわたしたちの途上の歩みにおいて、その愛を、最後まで注ぎ続けて下さるということを、私たちは想像力をもって受け止めたいと思うのです。神は愛なり。そのことを私たちが日々実感して歩む者となることができますように。
(2018年10月14日 礼拝説教要旨)