《 創世記 32章23~31節 》
今日は旧約聖書の中の創世記から、ヤコブの物語に耳を傾けてみたいと思います。今日の箇所は、ヤコブが神様と組み打ちをするという聖書の中でも印象深い箇所です。ヤコブは今、故郷に帰っていくという状況の中で、それまで長く喧嘩別れをしたままであった兄エサウと再会することについて「兄がひどく恐ろしい」と言い、近づくにつれてその思いが強くなっていきます。そこに来ていよいよ川を渡るという、彼にとっては大きな決戦の前夜のこと、ヤコブは家族を全員先に渡らせて一人後に残りました。孤独に祈るような思いで夜を過ごす中、彼は何者かと格闘をすることになるのです。
実はこれは、ヤコブにとって二度目の危機と言うことができます。一度目は、彼がまだ若く、家族も何の財産も持たずに一人荒野を旅していた時のこと。彼は、これから先のことについて不安をおぼえながら、闇の中を一人で旅していました。そしてある夜のこと、彼は不思議な夢を見ます(28:10以下)。それは、その場所に天まで届く階段が伸びていて、そこを天使が上ったり下ったりしているという夢でした。さらに彼は、神が共に居て祝福を与えるという声を聞きます。それまで彼は、人生の孤独というものを味わっていたのですけれども、彼は「まことにこの場所に神がおられるのを、わたしは知らなかった」と眠りから覚めて気付かされるのです。神がおられるという現実に恐れおののき、「決して見捨てない」という言葉に支えられて、そこをべテル(神の家)と呼び、彼は新しい歩みを始めます。「若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と聖書(コヘレト12:1)にありますけれども、まさに彼は若き日に神を知るのです。
そして時が経ち、今彼は家族に囲まれて、財産や多くの者を従えて旅をしています。そこへ二度目の危機がやってきます。人生のそれぞれの段階で苦悩があり、危機があるということを考えると、これはある意味で人生ここまでいったらもう大丈夫ということではないということであると思います。そして、いずれ最終的に向き合わなくてはならないのは、自分と神との関係であるということではないでしょうか。人生の真剣な場面において神様と向き合う時がある、そのことがヤコブの歩みを通して、また特に彼が神と組み打ちをするということを通して示されていると思うのです。
この物語の中で、ヤコブが神様を相手にして決して離さないというところから、ふと思い出したことがありました。確か高校1年生の夏に、バイブルキャンプという夏のプログラムに参加した時のこと。新潟県の粟島という島を訪れ、海辺に沈む本当に美しい夕日と、虫にたくさんさされた夏のことが懐かしく思い出されます。その時に皆で聖書についてディスカッションをしたのですが、一つだけ妙に覚えているのが、クリスチャンのある引率の方の「猫」の話――自宅に毎日猫がやってきて、窓の外でニャーニャー鳴いて、どうやら何かちょうだいと言っているらしい。最初は、心を鬼にして見て見ぬふりをしていたが、あまりに毎日来てせびるのでとうとう根負けして、餌をあげてしまった――身近にもありそうな話です。その話が何かを祈り求めるということについての話であることは、当時まだクリスチャンではなかった私にもよく分かりました。祈る時には、私たちは率直に祈り求めてもいいのではないだろうかというその話が不思議と心に残り、夏の民宿の畳の部屋の風景と一緒に思い出されます。
他のことは時間の経つのと共に忘れかけているのに、不思議とそのことだけは思い出すことができるのはなぜだろうかとふと考えた時に、きっとこの話を自分はこれまで何度も思い出してきたからではないだろうかとも思いました。たとえばそれは、進路の節目であったり、大きな決断の時であったり、あるいは身の回りの「どうして」と思うような理不尽なことについてであったり、そういう時にふと頭をよぎる話であったのではないかなぁと思うのです。
神様に何かを求めたり、またどうしてですかと問うことについて、牧師になって、それがもう少し聖書の大切なことと関係していることを知りました。それは聖書には、何かキリスト教の教えはこうですよと箇条書きで書いてあるのではなく、そこには神様に問う人間の姿について書かれているという点です。そして、もし神様がおられるなら、世の中にどうしてこういうことが起こるのですか?という人間の側の問いを聖書はそのまま記しています。たとえばヨブ記などには、ひたすら神が正しいお方であるならばどうしてこういうことが起こるのか?という問いが物語として記されています。そういうことを神の正しさについてという意味で神義論と言いますが、人間の側から神様に問うという意味では、神様と組み打ちをして引き下がらない、今日のヤコブの話もまた、似たような見方をすることができるのではないかと思わされます。世の中における様々な疑問を私たちは率直に持ち、それをぶつけて良いということです。聖書は、わたしたちの生きた疑問に蓋をすることをしないのです。逆にもしそうであれば、この物語はおそらく正座をしているヤコブに、神様が何か教えを垂れるという形で終わっていたことではないでしょうか。しかしヤコブの姿からは、神様に対して激しく組み合って問うて良いのだと、そうすることが許されているということを聖書自体が示しているのだと思います。
さて、ヤコブの話をもう少し見ていきますけれども、神様は人間の側にも問われるお方であることがこの箇所から分かります。ヤコブに対して、彼の名前を聞かれるのです。そして、彼は「ヤコブです」と答えます。ここにはおそらく、単に個人の名前を聞くという以上の意味が込められています。というのは、彼の名には、騙す、欺くという意味があることが前の箇所に出てきます(27:36)。ですから彼は、自分の名前を言葉にして発音した時に、自分がどういう者であるかということを意識したと思うのです。確かに彼は、それまで狡猾に生きてきました。彼自身が一番そのことを知っていたと思います。また、もしかすると自分の中にある恐れの一番の原因はそこにあったのかもしれません。彼は、自分というものの本質を告白することになるわけです。彼が自分の名前を、その意味も含めて伝えたということは、神様の前にありのままをさらけ出したということでした。
また彼は、格闘の最中に自分の関節をはずされます。象徴的な意味で肝心要となるところを突かれ、弱さを思い知らされことになります。ヤコブは、おそらく自分の人生は自分のものだという形で神様をねじふせて屈服させ、そんなことは到底できないけれども神を敗北させようとしていたかもしれません。しかし彼は、逆に神に克服されたと言えます。神を相手にした時には、不思議なもので自分が負かされることによって、また弱さを思い知らされることによって神様の祝福の中に入れられるというところにこの物語の真理があるように思います。これはどういうことでしょうか。
ある詩を思い出しました。これは、「苦しみを越えて」という題の外国の詩で、作者は19世紀のアメリカの南北戦争時代のある無名の兵士によるものです。朗読してみたいと思います。
大きなことを成し遂げるために
力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱い者とされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に沿わぬものであるにも拘わらず、
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。 (渡辺和子 訳)
「キリスト教との出会い 聖書資料集」富田正樹著、日本キリスト教団出版局、p48