《 ヨハネによる福音書 15章1~10節 》
みなさんの周りには、畑で野菜や果物をつくる親戚や家族の方はいますか? 植物が育つには、毎日水をやったり手入れしたりすることが欠かせません。聖書の中には、そんな日常の畑の様子がたとえとして多く出てきます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」も、その一つです。
以前にいた教会には幼稚園があって、日頃手伝いをする機会がありました。園庭の一角に砂場があり、その上にちょうど日陰になるようにぶどうの木の棚があります。ちょうど夏が終わる頃になるとたくさんの実がなって、ぶどうを収穫することができました。毎年、大人がまず脚立の上に登り、葉っぱの陰に隠れているぶどうをはさみで切って、それを下で手を伸ばして待っている幼稚園の子どもたち一人一人に手渡すということをするのです。ある年その脚立に登る役目をしたのですが、園児たちの真剣なまなざしといったら……子どもたちは上を向いて一所懸命背を伸ばして両手でブドウを受け取ります。渡す時は、こちらは片手で棚に捕まりながら身を乗り出して手渡すので、なんだか空中ブランコに乗っているような気分です。小さな手でぶどうを受け止めた子どもたちは、本当に大事そうにして両手の中のぶどうをのぞき込みます。そしてうれしそうにして他の子どもたちに見せてみんな目を輝かせている。それはなんともうれしい光景でした。
そのことを思い出すと、なんだかイエス様の気持ちが少しわかった気がします。「わたしにつながっていなさい」 イエス様も、わたしはまことのぶどうの木と言われた時に、そこにいる子どもたちがつながることができるようにして手を伸ばし、そしてまた大切なことを受け止めてくれる人がいるから、うれしかったのだと思うのです。なんとかして身を乗り出して手を伸ばすような気持ちに、イエス様もなったのではないでしょうか。
今日は花の日ですけれども、皆さんは本物の花と偽物の花の見分け方を知っていますか? 蝶々が飛んでくるまで待つ。それも一つの方法だと思います。でもそれだと飛んで来て花にとまるまで待たなくてはいけないですね。もう一つの方法は、葉っぱの先や枝をよーく見て、観察する。すると本物の方は、どこかがちょっとだけ茶色くなっているんです。これは、生きているものは決して完全な姿ではなくて、どこかが痛んだりすることが常にあるということです。そして、私たち人間も同じだと思います。けがをすることもあるし、病気になることもある。心もやはり傷つくことがあると思います。
坪井節子さんというクリスチャンの弁護士で、子どものためのシェルター(様々な事情のために家で生活することができない子どもたちが一緒に生活する場所)を運営している方がいます。そこには傷ついた子どもたちが生活を共にしていて、特に坪井さんが教会に行っているのを子どもが知り、「わたし、神様を信じてないけど、祈っていてね。絶対だよ」って言うのだそうです。それまで生きていて、本当にたくさんの辛いことを経験してきた子どもたちは、神様なんてなかなか信じられない。けれども自分のことを親身になって真剣に考えてくれて、そして祈ってくれる人がいるということによって支えられているといいます。辛さを抱える中で、そのように向き合い祈ってくれる人がいることは幸いではないでしょうか。そしてそれは祝福をつなぐ人の働きではないかと思わされます。悲痛なニュースを見聞きすることの多い中で、私たちの社会はそのような地道な働きがあるということも心にしっかりと留めたいと思うのです。
さて聖書の方に目を向けると、気付かされるのは何よりも「農夫」と言われる人の存在があるということです。その農夫は、実を結ぼうとしているけれども力が足りない枝を手入れし、折れそうになっている枝は接ぎ木もするのだろうと思います。離れてしまいそうになっている枝をも、もう一度つなぐお方。私たちにはそういうお方がいるというのです。思い出されるのは、実が生らないいちじくの木の話です(ルカ13・6以下)。毎日水をあげて世話をしている農夫が言います。「どうか、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。栄養を加えてみます」。そのような農夫の姿は、あの良きサマリア人の話とも重なります(ルカ10・25以下)。ある人が追いはぎに襲われて倒れているのを見て、あわれに思い、近寄って傷を洗って包帯をし、宿屋の主人に「この人を介抱して、さらに必要な分はわたしが払います」と言ったサマリア人。そこには、私たちをまるで自分のことのように思い、再起を切に願う方の姿があるのです。
考えてみれば、教会に来ている私たちもまた、何度でも農夫なるお方に接木してもらったと思えるところがあるのではないでしょうか。離れてしまっている時には神様の方が一所懸命手を伸ばし、また、生きている以上負う傷も手入れをして頂いた私たちであると思うのです。「わたしはぶどうの木」と言われ、その大きな木に皆がつながっているという時、私たちはそういう枝であるということを思わされます。
最近は「きずな」ということがよく言われるようになりました。人と人とのつながりを表すとても大切な言葉です。ある人は、そこに「きず」という音が入っていることに注目して、「ほかの人のために傷つく覚悟があるから絆という」と言いました。確かにあの良きサマリア人のたとえ話では、一人目、二人目の人は見て見ぬふりをして通り過ぎていき、それはある意味で自分が傷つくことを恐れて通り過ぎて行った人々とも言えます。また、ある人は、「きっとお互いの傷と傷が深い所でつながるから絆というのではないか」そう言いました。そういう意味では、自分の側もまた常に問われる言葉であると思います。
使徒パウロは、「共に福音にあずかる」と言いました。(第1コリント9・23)。彼はなんとかしてキリストを伝えようとするのですが、そのことを通して自分もまた福音にあずかることになると言うのです。これは、人から人と言う一方向的なあり方とは違います。先の絆の話で言えば「あなたの傷が、またカラカラになった心が満たされる時、私の傷や心も満たされる」というつながりのことを言っています。何か高いとこにいる者から一方向的に流れていくのではなくて、大人も子どもも共に共鳴して分かち合っていく、そういう関係です。
今日私たちは、花の日の礼拝を迎えました。それは、単にきれいな花に囲まれてということだけでなく、一人一人が被造物であることに心を留める礼拝です。先ほど「創り主を讃美します」、また「小さな野の花でも」と歌いました。「バラはバラのように、すみれはすみれのように」と歌詞にあるように、神様に一人一人が生きた尊い存在として今日も生かされていること思います。また同時に、生きている以上葉の先が茶色くなるような私たちでもあります。そうであるからこそ私たちも弱さを担う者同士として、互いにつながることができる、共鳴し合うことができる、そのことを気づかされる時でもあると思うのです。どうか、その気付きを与えられて、「わたしはまことのぶどうの木」と言われるキリストの枝として、そこに共につながる豊かさを心から実感して歩んで行くことができますように。
(2018年6月10日 礼拝説教要旨)