《 テサロニケの信徒への手紙 3章6~13節 》
今日の箇所では、使徒パウロが、できたばかりの教会が言わば離れ小島のようになっていることを心配し、手紙を書いて励ましの言葉を書き送っています。その中で、パウロは、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言える」(8節)と言います。ここでは喜びを越えて、生きているという実感を与えられている、ということをパウロが述べていることは注目に値します。
私たちは実際に生きていて生活していても、必ずしもその実感を得ているとは限りません。時に希望がなく、うつろになっていて、全てが空しく思われることもあると思います。そのような時には、私たちは生き生きとした状態と正反対の状況にあると言えます。しかし私たちは、生きる喜びや充実感を得ている時には確かに「あぁ、今、私は生きている」と言葉にすることができるのだと思います。
これは、もしかすると日本だけではなく、先進国と言われる国に共通のことかもしれません。若者に、将来について今よりも良くなると思いますか、との質問をすると、多くの者がそうは思わない、希望が持てないと考えているそうです。さらに、それに連動するように、現在において生きがい、また張り合いがあるかという問いには、ないという返事の割合が多いのだと言います。私たちは、どのような時に生きがいをおぼえるのでしょうか。人によっては、それが職業であったり、家庭であったりして、それ自体は神様の祝福であると思います。しかし、いざそれが過去のものになった時には、新たな生きがいが必要になると思いますし、そう考えると、単に代わりの何かを探すことよりも、より根本的で深い生きがい感が必要になってくるはずです。
神谷美恵子著の『生きがいについて』という1966年に出された本を手にしました。著者はキリスト教の伝道者であった叔父に誘われて、学生の時にハンセン病療養所、多磨全生園を訪ねたことがきっかけで、後にハンセン病患者に寄り添う精神科医となりました。そこから発せられるより本質的な問いをもとに、この本は冷静な視点と洞察をもって書かれています。その中に、こう記されている箇所がありました。「生きがい」について、「ある人は、『刹那ともいうべき極めて短い時間に、この世に生きている喜びを感じさせるもの』、と考えているし、ある人は、『いつでも反省してみれば、そこにどっしりと横たわっていて、つきざるよろこびが湧いてくるというようなもの、……これあるが故にどのような逆境にも悲惨にも肯定的感情を失わず、人間に生まれてきた甲斐ありとしみじみと涙をこぼしてよろこべる、というようなもの』と規定する。」これは、実際には著者が二つの意見を対比するために引用している言葉ですが、そこでは、生きがいは、一時的なものではなく、「そこにどっしりと横たわっていて、つきざる喜びがわいてくるというようなもの」ということが語られていることに目が留まります。それは、「これあるが故に、どのような逆境にも悲惨にも肯定的感情を失わず、人間に生まれてきた甲斐ありとしみじみと涙をこぼしてよろこべる、というようなもの」とあり、ここに記されている言葉は、正に信仰の言葉ではないかと思わされます。
「そこにずっしりと横たわっていて」、というのは、私たちとは別の存在が、言わば岩盤のような存在が、足元を根底から支えていて安定を与えてくれるもののこと。また、それがあるおかげで、逆境の時にもなお、人に生まれてきた甲斐があったと、感謝の言葉を述べることができる、そのような肯定的感情を与えてくれるものであると言います。
次の詩編もまた、似たようなな意味で神への讃美を綴った歌であると言えるでしょう。
「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」(詩編40編3~4節)
詩編には、救いの岩という表現が多く出てきますが、ここでは、実際に岩の上に私が立ち、足元から私を支え、さらに内側からこみ上げてくるような讃美が与えられている思いが綴られています。
私たちを根底から支えるもの、それは、何かを為すこと、することにおいて得られる、「やりがい」という充実感以上のものです。私たちが命与えられて生存すること自体への喜びと讃美、生きていること自体への感謝を与えられ、そういう内側からこんこんと湧き出ずる、「生きがい」があるということに目を留め、それを大切にしたいと思います。
さて、今日の聖書の箇所、後半、特に13節に「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」とあります。このことは、何か巷で言うような、いわゆる世の終わり的な恐ろしい出来事としてではなく、神に属する者への希望の出来事として語られています。そして、そういう終末観をもって生きる時に、大切なことは、それが日々の現実の歩みにおいて、大きな違いをもたらすということです。
先の本には、多くのハンセン病患者さんらが、隔離政策のもと生きがいを喪失した中で生活することを余儀なくされているということが著者の根本的な問としてあるのですが、その中で、その療養所の中においても、「はっきりした終末観をもつ信仰の持主には、この確固たる未来展望がおどろくべき力をもたらし、現在のあらゆる苦難に耐える力を与える」といいます。この確固たる未来展望が、将来のことだけでなく、現在のことについて、あらゆる状況において力を与えるということは、正に聖書の伝えていることです。
生きがいというのはきっと将来へと開かれていくのだと思います。たとえば社会全体が右肩上がりのような勢いのある時期であれば、皆が将来に希望を持ち、大変なことがあっても頑張って働き、さらに良くなっていくという社会全体の流れの中で、自分たちがそこに属し、また貢献しているという意識が生ずるのだと思います。
同じように、私たちはもう一つの「全体の大きな流れ」があるということを知らされています。社会とは別に、信仰者が属す、もう一つの大きな流れというものがあり、それは国や民族ではなく、信仰の共同体として、旧約聖書の時代から連綿と続く流れです。たとえばヘブライ人への手紙では、「わたしたちもまた、このようにおびたただしい証人の群れに囲まれている以上…自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章1,2節)と信仰者を鼓舞しています。旧約の時代から、信仰者がつらなる大きな流れの中に自分たちもその一部として置かれていて、眼には見えなくとも、私たちは、その絶えることのない大きな流れに支えられ、また、その将来に向けてそこに私たち自身も寄与している、と言うことができます。ちょうど社会の流れに自分の生きがいが影響されるように、ましてや私たちは、はるかに大きな信仰の流れを意識した時に、私たち自身の内に信仰による生きがいを与えられるのではないでしょうか。
私たち一人一人、日常置かれたところにおいては、まるで離れ小島であるかのように思うのですけれども、私たちは、この信仰による流れに結ばれているということに心に留めたいと思います。パウロもまたテサロニケの教会の人々がそうであることに大きな喜びを抱きました。どうか私たちが、目には見えなくとも神に属するその大きな群れの一つであることを心に留め、私たちに与えられているものを、そこに寄与すべく生きていくことができますように祈りたいと思います。そのようにして、どうか私たち一人一人に生きる喜びが与えられますように。
(2018年4月29日 礼拝説教要旨)