光を与えられて(3・11を心に留めて)

《 ヨハネによる福音書 9章1~12節 》
 東日本大震災から七年を迎える今日、私たちはそのことを深く心に留めつつ、共に礼拝の時をまもっています。置かれた状況の中で、聖書がどのように私たちに語りかけてくるのだろうかと問いつつ、福音書に記された主イエスを巡る出来事を見ていきたいと思います。 
 ヨハネによる福音書9章には、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒されるという出来事が、章全体に詳しく記されています。弟子たちは、その人を前にしてイエスに尋ねました。「この人が目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。その人の親が近くで聞いていたら、ドキッとするような言葉です。私たちにとっては、いつも反面教師のような弟子たち。しかし、ここでの彼らの様子は、誇張されている訳ではなさそうです。彼らがそのようなことを尋ねる背景には、まだ医学の発達していない時代のことで、様々な民間伝承が信じられていたことがありました。また、当時の教えの中にも、こういう言い伝えがありました。「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」。それは、先祖が何か悪いことをすれば、その子孫に影響が出るという因果応報的な連鎖を意味しています。そして旧約聖書の時代に、エレミヤは、そのようなことは決してないのだということを言います(エレミヤ書31・29)。しかし、それでもなお、イエスの時代に、弟子たちもまた周囲の者も、そういった考えにとらわれていました。なぜ人はそのように考えてしまうのでしょうか。
 私たちは、ある種の理不尽と思えるような事柄を抱える時、しばしばその原因を考えると思います。ことの事態が苦しければ苦しいほど、必死で理由を見出そうとします。何か科学的根拠に基づいて解決策につながればそれは非常に良いのですが、場合によっては、迷信じみた理由を刷り込まれてしまうこともあります。先祖が悪い、方角が悪い、供養が足りない。それらは私たちを何か楽にしたり、解放したりすることにはつながらず、むしろ必死であるだけに、ここがいけない、あそこがいけないと、言われることにつけ込まれるように従ってしまい、お金もつぎ込んで振り回されるケースもあります。そのような場合、逆に二重三重に苦しみが増すということが起こってしまい、切実です。また、仮にそのようなことにならなくとも、私たちの内側には、何か困惑する中にあると、「何々が悪い」という考えに支配されがちであると言えます。それは、心の中で犯人を特定してどうにかして安心したい、そういうところから来ているのかもしれません。
 しかし、何かの結果として今があるということばかりにとらわれるのは、思考の歯車が後ろ向きではないでしょうか。何かの「結果」というのは、過去へとさかのぼっていきます。主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われます(3節)。「現れるため」というのは、過去的ではなく、未来的です。これからのことに向かって前へ進んでいきます。しかも、「神の為さるみ業のために」、です。そうして彼は、言われた通りにシロアムの池で、まぶたに塗られた泥を洗い落とすと、目が見えるようになりました。
 彼は、こう言います。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。彼はそう語っています。この言葉に基づいた歌詞があります。アメージング・グレースで知られる、讃美歌21の451番、「くすしきみ恵み われを救い、まよいしこの身も たちかえりぬ」という節の元の歌詞は、最後のところが「かつて目が見えなかったが、今、私は見ることができる(I ...was blind but now I see)」という歌詞になっています。作詞者のジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長をしていた時に、嵐に遭って難船し、その中で回心を経験します。彼の母は敬虔なクリスチャンでした。ですからおそらく彼の幼い頃に養われた信仰が、窮地にあって立ち帰るところを彼自身にはっきりと示したことでしょう。その後、彼は牧師になっていくのですけれども、彼のその経験とその後の歩みが、「かつては見えなかったが、今ははっきりと見ることができる」と詠われているように思います。

 さて、目を癒された人は、当時のユダヤ人たちに問い詰められるようにそのいきさつを尋ねられます。そして、彼は、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないからです」と答えると、彼らは「我々に教えようというのか」と言い返して、彼を「追い出した」ということが書かれています。ここで追い出したというのは、単に屋外に出したということではないようです。ユダヤ人たちは既にイエスを信じる者がいれば、会堂から追放するようにと決めていました。それは、その共同体から追い出されて、いわば村八分のようなかたちであらゆる生活上のつながりを絶たれることを意味していました。そのようにする当時のユダヤ人たちは、ここで真実を見ないのです。体制にとって都合の悪いことを見ず、まさにそのために彼を追い出していきます。実際、彼らはイエスに指摘され、「我々が見えていないということか」(40節)と反論する姿が、逆にそのことを現わしています。イエスは、真実を見ようとしない権力者たちに対しても、そのことを指摘されるお方でした。
 また、彼が追放されたことが主イエスの耳に入ると、イエスは、すぐに彼に会いに行かれます(35節)。この人が孤立することになったことに、大きな配慮を示されました。主イエスは常に孤立するものに寄り添われるお方です。
 孤立する者に寄り添われるとは、どの時代の者にとっても励ましを与えられることでしょう。そして特にキリスト教が誕生し、初期の頃の教会は、そのことに特別な思いを抱いていたと思います。というのも初期のクリスチャンたちは、もともとは多くの者がユダヤ教を信じていましたから、イエスを信じた後もユダヤ教との交わりの中に生きていました。しかし、ひとたびイエスを信じる者は異端であると、ユダヤ教の側で正式に決められると、彼らはその結果、ユダヤ社会の中から追い出され、孤立するようになりました。社会全体から急に閉め出されたような道を歩むことになったのです。そのような中で、彼らはもう一度イエスの出来事を真剣に聞き、そのことを通して、イエスの臨在に触れたのだと思います。福音書とは、イエスが立ち上がってくる書なのです。信じて歩み出そうとする者が、追放されて不安を抱えている、まさにその時に、主が傍らに立ってくださる。そのことに、最初期のクリスチャンたちも力を得たことであると思います。そのようにしてキリスト教は途絶えることなく、人々は静かに、また確かにイエスというお方の臨在に支えられてその信仰を広めていくことができました。
 キリスト教は誕生した当初から、「孤立に寄り添う主」ということを経験し、またその信仰を大切にしていました。そして、そのことから私たち自身も教えられるように思うのです。今日私たちがこの箇所を聞き、追い出された人を即座に見出し、寄り添われた主イエスの姿を思う時に、何を教えられるでしょうか。それは孤立の中に置かれている者に、寄り添う心を持つようにと、私たち自身への語りかけとなるのではないかと思います。
 私たちは、社会の中で、様々な事情で全体から余儀なく切り離された人々がいることを思います。ことに、今日この日は、東日本大震災から七年を数え、犠牲になられた方、また今なお苦難を強いられている方々のことに心を留めます。それらの多くの方は、まさに家と生活を追われた人たちではなかったかと思います。私の知る方も、陸前高田の出身で、今日はその地に住むお母様の介護に行かれていることを最近聞きました。全国に避難された方の数も、一番多い時の五分の一ほどになったとはいえ、今なお七万三千人おられると聞きます。また、福島県では避難指示の解除が進んでも、未だ放射線量が高い帰還困難区域が残り、解除されても、実際には町の半数は戻ることができないと判断していると知らされている通りです。七年という歳月が経ち風化されてしまいがちな中で、心に留め、祈りにおぼえ、できることを考える。そのことが教会の働きの一つであることを主イエスの姿勢から教えられているのではないでしょうか。
 主イエスは言われました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」(4節)。ここで、「わたしたちは」と言われていることに注目することが大切ではないかと思います。「わたし」ではなく、「わたしたちは」とイエスは言われるのです。その視点を与えられ、わたしたちも為して行くようにと、今日も響いてきます。どうか、私たち一人一人が、物事の真実をしっかりと見、それぞれの賜物を用いて寄り添い続ける者となることができますように。
(2018年3月11日 礼拝説教要旨)