《 ヨハネによる福音書 3章1~15節 》
今日の礼拝では、ニコデモという人物を巡って福音書が私たちに語りかけてくる内容に共に耳を傾けてみたいと思います。ニコデモという人は、ユダヤ人たちの議員で、ファリサイ派の一員でした。彼は、イエスの行われたしるしを見聞きし、そのお方に対する強い関心を引き起こされました。そして彼は、イエスに近づきたいのですけれども、人の目、特に彼自身が属していたユダヤ教の権威者たちのことを気にしていたようです。夜、彼が訪ねてきたというのは、彼のそのようなジレンマというものを表しているように思います。ニコデモは人目を避け、イエスのところに、夜そっと訪ねてきました。
ファリサイ派の人々と言えば、聖書ではしばしばイエス様に対してまるであら捜しをするかのように議論を持ちかけ、イエス様はいつもその議論を深い神の言葉をもって答えられることが見られます、しかし、それらの場合と違い、ここではニコデモが真剣に求めている姿をご覧になったのだと思います。それに応えるように、イエス様は、おそらく夜のほんのりしたランプの光の中で、すぐに核心とも思えることを話されました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
イエス様はニコデモが当時のユダヤ教の指導者でもあることも意識して話されたのではないかと想像します。特に彼らは、律法に厳格で、行いに熱心でした。たとえば、後に出てくる使徒パウロは、こう記しています。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。……律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3・3~7) ファリサイ派であることが、どういうことかよく現れています。ニコデモの場合は、このパウロほど、相手を迫害するということになっておらず、まだ駆り立てられていないと言えます。その反対に、彼は非常に冷静で、体制の中でもそれに染まらずに自分の考えというものをしっかりともっていたのだと思います。
彼の思考、考え方はぎこちないのですけれども、それでも、彼は真理を追究するという点で、流されずに物事を自分の言葉と心で考えていたのではないでしょうか。それゆえに、ある夜思い切って、イエスのもとを訪ねたのだと思うのです。そして、イエス様はそういう彼に、染み入るように言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
しかし、ニコデモは理解していないようです。イエス様は続けます。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」彼はユダヤ教の教師、つまり旧約聖書を熟知しているはずです。霊という目には見えない風のような働きが確かにあり、それは神様の息吹のようであって、それにより人は新しくなるということを。そういう神様の創造の業というものを知っているはずであるにもかかわらず、彼は目を閉ざされているわけです。
そのことは、彼のピントのはずれた答えから分かります。「どうして、もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょう。」彼は、現象面だけで考えているのです。この返答は少しこっけいに思えますが、しかし、物事を実際に目に見えることだけで喜んだり、悲しんだり悲観的になったりするという傾向は、むしろ現代の私たちの方が強いのではないでしょうか。確かに現象面で考えることは物事を着実に進める上では、それ自体は必要なことで、むしろ大切なことですが、もしそこに神様の介入のあることを認めないのであれば、それは、やはりニコデモのようにピントがずれているということになると思います。
現実がどうでもいいわけではない、しかし、そこに神様が働いておられるのであれば、信頼して自分自身を神様の側に置くことができる、そういうことではないでしょうか。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19章21節)という御言葉を思い起こします。現象面だけに生きる場合は、小さな一つ一つのことに一喜一憂するのですけれども、神様の側に心を置く者は、そこに引きずられず、またそこに捕らわれないでいられる。その意味で逆に自由な生き方ができるのではないでしょうか。よく私たちは心に余裕を持たなければと言いますけれども、私たちにとっては、神様の働いてくださる余裕を持ち、自分一人で為すのではなく、自らの内に、神様のための空間を確保することが大切ではないかと思わされます。
さて、ニコデモとイエス様の対話について、もう少し考えてみたいと思います。ニコデモは、母の胎内に入って再び生まれると言いましたけれども、それは、同じことを繰り返すことを意味しています。ですから、ニコデモ的な考え方は、物事を目に見えるところで判断し、全てのことをその延長線上にあると考えています。しかし、聖書的な考え方によれば、神がこの世を創造された時から一日一日は独立していて、神様はリズムをもって創造されました。ニコデモ的な考え方は、明日も今日と何も変わらない、ということが前提となっています。しかし、聖書的な考え方では、一日、一日の上に新しい風が吹きます。また、ニコデモ的な考え方では、明日は、全て自分の手にかかっているので、思い悩むことになるが、聖書的な考え方では、神は一日、一日の上に、マナを降らせ、新しい恵みを注いでくださるのです。
朝起きて、「あぁ、今日も新しい命を与えられている。どうか、今日一日働くに足る力を与えたまえ」と祈る。これは聖書的です。また夜目を閉じる時、「今日も一日主の恵みによって支えられ、感謝します」と祈る。これも聖書的であるわけです。日々新たに、とはそういうことだと思います。目に映ることだけで捉え、神の恵みもその働きも思わないということであれば、この世は空しいと言わざるを得ないと思います。そして、どちらに依って立ちますか、ということであると思うのです。
「空の空、一切は空である」と言った、旧約聖書のコヘレトの言葉を思い出します。彼は言います。「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。」「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。」「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(1章より)もし、この著者が、今日生きていて、私たちの生きる世界を見たならば、ますますため息をつくように、憂いを深めているかもしれません。しかし、まさにそこにあって、聖書は、神の新しい創造の息吹が吹き込まれ、新しいことを芽生えさせようとしていることを伝えています。この世はそのことを信じなければない、という意味で、「新しく生まれなければならない」と言われているように、聞こえてきます。
その夜イエスとの対話を終えたニコデモが、どのようなことを思って夜道を帰っていったかは記されていません。イエスの言葉をその後、彼なりに受け止めていったことと思います。その後、彼はヨハネ福音書に二回登場します。
一度目は、7章45節以下のところで、ユダヤ教の下役たちがイエスのことを好意的に報告すると、祭司長やファリサイ派の人々らが彼らを叱責し、我々の中にイエスを信じる者などいないと言い、また信じる群衆をののしる場面があります。そこにニコデモが登場し、立ち上がって発言をしています。「律法によれば、まず本人から事情を聞き、確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、律法に言及して自分の立場をわきまえつつ、しかしイエスを守ろうとします。また、その弁明の仕方でも、彼らしく直接確かめる必要について訴えて、彼の立場でできる範囲内で、イエスの弁護をしようとしています。
また、二度目は19章38節以下で、イエスが十字架につけられた後、まず、アリマタヤのヨセフがピラトに申し出た直後、それを待っていたかのように加わり、彼と共にイエスを手厚く葬ります。彼はピラトとは対決をせず、しかし、自分の立場の制約はありながらも、最大限、あるいはそれ以上のことを、イエスに対してしていると言えると思います。そして、どちらの箇所においても、ヨハネ福音書は、彼がかつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモであるという説明を加えています。これは、そのつながりと経緯を悟るようにとのことだと思うのです。ですから、彼が、イエスを弁護し、また葬りの際に最後にイエスにできる限りのことをしたというのは、人としてイエスを敬い、礼を尽くしたということだけではなかったようです。
ヨハネ福音書がこれらの箇所で含みを持たせて記しているのは、ニコデモもまた、イエスとの出会いを通して、その時間的経過の中で変えられ、新しい生き方とその目的を与えられていったということだと思います。彼は、たとえば使徒パウロのように、その立ち位置の大胆な転換で人々を驚嘆させることはしなかったけれども、しかし、彼の振る舞いから分かるのは、彼がユダヤ教の体制の中に身を置きつつ、その枠の中で、ある意味でしたたかにその堅実な個性を役立たせて、少しでも御心に沿う方向へと、その舵取りに尽くしていったのではなかったかと思います。そういう彼の在り方をヨハネ福音書は、やんわりと読者に悟るようにという形で、伝えようとしているのではないか、そう読むことができると思います。
世に在って、キリスト者として歩むということを考えると、その在り方は一様ではありません。ある者は、使徒パウロのように、あの人こそ本物のキリスト者と言われ、尊敬されるような人もいると思います。そしてまた、反対に目立つことなく、はたからはニコデモのように、信仰を持っているのかいないのか分からないように見える者であっても、自分が置かれたところの意味を信じ、その中で精一杯、主イエスのためにとひたむきな努力をする者もあると思うのです。それは、信仰を公に言いあらわしていないということとは違うと思います。
もしかすると、日本の社会では、クリスチャンとはそういう方が多かったのではと想像します。ニコデモのように全体の枠の中に踏みとどまり、そこで自分にできる仕方で少しでも御心に沿う方向へと変えていく、そういう信仰者の在り方が数多くあったのではないでしょうか。案外その方が内側にじわじわと痛みの伴うことかもしれません。しかし、ヨハネ福音書は、そういう信仰の在り方を決して否定することなく、むしろ世の中には、そのように枠の内側に踏みとどまり良き方向へと変えていく信仰者が必要とされているのだということを暗に伝えているのではないでしょうか。イエスの十字架の痛みを感じつつ、今日、与えられている命を感謝し、そしてまた、社会全体をも空しい方向ではなく、命ある方向へと導かれる主がおられることを信じて励むことができるということを教えられていると思うのです。
どうか私たち一人一人、今日も福音書より示されたことを心に留め、この週も歩んでいきたいと思います。
(2018年1月28日 礼拝説教要旨)