つながっていること~花の日礼拝にて

《 ヨハネによる福音書 15章1~10節 》
 今日は、花の日礼拝として、子どもも大人もこうして一緒に礼拝をしています。
 みなさんは、最近ぶどうの木を見たことがありますか? ちょうど先週、ぶどうの木の写真を撮ってきたので、教会学校のみなさんには、プログラムの中にのせました。よく見ると、葉っぱは大きく茂っているけれども、実の方はまだ小さくて緑色ですね。今は6月ですけれども、毎日観察すると、だんだん色づいて紫色になって、きっと、夏休みが終わるくらいになると、実も大きくしっかりしたぶどうになります。そう考えると、何ヶ月もずいぶん長く待たなくてはいけないんですね。
 今はスーパーに行けば、果物をその場ですぐに買って帰ることができますけれども、本当は、そうやってお店に並ぶまでには、それを育てる人が、一生懸命毎日水をやって、木が弱ってないだろうかと様子を見て、虫や鳥に食べられないように袋をかけたり、それから強い風で枝がおれないだろうか、と支えをしたりして、一番いいぶどうがなるように「手入れをします」。それでも、やっぱり台風や何かが来ると、心配になるわけです。あの枝についているあの実はだいじょうぶかな、と気になって、長靴を履いて傘をさして見に行ったりすることもあると思います。
 神様は、そういうふうに私たち一人一人のことを気にかけておられて、「天気の良い気持ちの良い日もあれば、雨風がとても強い日もある。だからそういう時は、しっかりとつながっていなさい」と言われているんです。では、5節の言葉を、みんなも、目でしっかり追って下さい。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに身を結ぶ。」

 さて、今日はこの箇所を聖書の前後の文脈の中で、もう少し大きな枠組みの中で、見てみたいと思います。今日の箇所をさらに少し読み進めて15節を見ると、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とあります。「友と呼ぶ」とは、どういうことでしょうか。
 皆さんは、日頃、友人関係のことをよく考えることがあるかもしれません。良い友達と巡り会えることは、実に幸せなことだと思いますし、もしかするとそれは生涯の宝となる出会いかもしれません。その意味では、やはり良い出会いというのは選べるものではなく、与えられるものだと思います。また、逆に友人関係に難しさを感じる場合もあるかもしれません。様々な状況があるかもしれませんが、やはり最終的には、友である関係というのは、自分の良いところも悪いところもお互いに受け入れあうことができるということが、友であることの大切な部分ではないでしょうか。
 また、友達ですから、やはり自ら進んでその友のために何かことをすることもあると思います。逆に言えば、命令されて何かをするのであれば、それは友という関係ではないわけです。支配したり支配されたり、ということではなく、むしろ「友のために」と、あの人この人のために、自分の内側から何かをしようと思う、そういった、自分から何かをしようという自発性という部分があるのが、友であることの自然な形ではないかと思います。

 しかし、聖書の書かれた時代の社会では、そういった純粋な意味での友というものを持つ事は難しかったようです。というのも、当時は、その日、出会う全ての人に対して身分の上下ということを考えて接しなくてはならない社会でした。主人と奴隷という身分の違いはもちろんのこと、家柄の良さや、社会的地位によって常に「主と従」が決められていて、生まれた時からそのような社会の一員となり、そこから逃れられなかったわけです。ですから、一番上にいる者が紐を引っ張れば、何も言わなくてもその主従関係が連動するように働いて、人々が黙って従う。つまり個が犠牲になる社会であったわけです。
 そのような社会に生きていると、弱い者は常に社会的、経済的に力のある者に「つながる」ということによってでしか生きる道がありません。それしか方法がなく、人にへつらう、ということも当然のこととして毎日を生きていたわけです。当時の社会において、「つながる」とはそういうことを意味していました。
 そのような背景の中で、イエス様が「あなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃったのは、もはや人が人によって支配されない、新しい関係のことを意味していて、それは主従関係において主と従が産み出す一方向な関係で作られる社会の「巨木」ではなくて、相互の信頼によって結ばれて形作られる、「まこと」の木についておっしゃっているわけです。

 そう考えると、やはり「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ということと、その直後の「あなたがたを友と呼ぶ」ということとは、切り離せないことであると改めて思わされます。枝というのは木の幹から栄養をもらわないと枯れてしまうのですが、かといって、主と従の関係ではなく、一方通行の関係ではないのです。それぞれの部分に働きがあって、枝がなければぶどうの実はつきません。また、葉も大人の手の平くらいあって、そこで太陽の光を十分に受けて二酸化炭素を酸素に代えるという大切な働きをしていて、無くてはならないものですよね。ぶどうの木の幹につながりつつ、それぞれ、なくてはならない働きがあるのです。
 そういう意味で、主イエスは、この植物のたとえを通して、当時の社会とは違った、新しい価値によって築き上げられるあり方について教えて下さろうとしているのだと思います。

 さて、このことから思い出すのは、使徒パウロが、コリントの信徒たちに宛てて書いた内容です。そこには、教会はキリストの体であり、一人一人はその部分です、と書かれています(第一の手紙12章)。目も耳も手も、お互いいらないとは言えず、一つ一つの部分がそれぞれ大切な存在であり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)とあります。
 実はそれが書かれた状況というのは、特にローマ帝国支配のコリント社会において、皇帝を中心として、強いこと、また見栄えの良いことが人々に過度に尊ばれていた社会状況でした。
 そこに使徒パウロは、まったく逆の内容を教会に示したのです。強い者に「つながっていく」のではなくて、もう一つのつながり方を示すのです。さらに、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が必要なのです」と言い、また、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」あります。その意味でも、やはり主イエスのぶどうの木のたとえも、それと同じ価値観を、わたしたちに教えているのだと思います。

 最後に、今日は花の日ですので、お花畑についてのお話をして終わりたいと思います。
 今から5年ちょっと前に東日本大震災が起こった時に、たくさんの放射性物質が広い地域に降り、それをどうやって取り除こうかと、今も苦労していることを、皆さんもニュースなどを通してよくご存知だと思います。今日は、ある禅宗のお坊さん、阿部光裕さんという方が当時したことを紹介したいと思います。
 阿部さんがまずしたことは、その地域の人々に、放射能に汚染された土をお寺の境内にもってきてもらう、ということでした。それぞれの家の庭や畑の表面の土を削って、袋につめて、それを、近所のあちこちの家から持って来てもらったわけです。そして、その後、どうしたかというと、今度はその土の上にひまわりを育てました。それで、辺り一面がひまわりでいっぱいになり、ひまわり畑の風景になったわけです。
 背の高い黄色い花が一面に咲いているのを見ているだけでも、気持ちを元気づけてくれると思いますが、それだけではなくて、実は、ひまわりというのは、土から放射性物質であるセシウムを吸収して、吸い上げる作用があるんだそうです。もちろん完全にではないですけれども、その根っこが、その先から悪いものも一緒に吸い上げてくれる、というわけです。除染ということについて人々が心を痛め、非常に苦労している中で、まずその土をかき集めて、そしてその上にひまわりを育てるということを実践されたのでした。

 そのことを通して思うのですけれども、わたしたちもそのような、ひまわりのようになることができるのではないでしょうか。根を私たちの周りに深く行き渡らせて、人々の痛みであったり、悲しみに寄り添うことができるのではないかと思うのです。それは微々たる働きかもしれませんが、わたしたちの生きる社会は、そういうことが、本当に必要な社会であると思うのです。
 また教会も、ひまわりのようにこの地域に根を深く伸ばし、人々の生きづらさや、行き場のない思いに触れることができることができるのではないでしょうか。それは、わたしたち自身が、やはり痛む者であるからこそ、人の痛みを共に担うことのできる者とされているということでもあると思います。
 たしかに、わたしたちは十分に人々の気持ちをわかってあげられないことの方が多いかもしれません。経験とはそれぞれ異なるのも事実です。それでもやはり、わたしたちは、「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣くものとなりなさい」(ロマ12:15)と教えられています。そして、わたしたち自身が何よりもイエス様に「つながっている」というところに、希望があるのだと思います。
 神が人となられた、ということは、神がわたしたちの痛みを知った、ということですし、また、イエスが友のために命を捨てられたということは、正にわたしたちに命を与えておられる、ということなのです。

 わたしたちも、どうかそのようにして、人に本当の意味で命をあたえてくださる「まことのぶどうの木」を中心をとして、共にそこに「つながっていく」教会でありたいと思います。
(2016年6月12日 礼拝説教要旨)