《 マルコによる福音書 5章1~20節 》
今日の聖書の箇所には、実に不思議な出来事が記されています。朗読された聖書箇所を実際に聞くと、穏やかでない出来事が聞こえてきます。福音書によればゲラサという地方に一行が着くと、墓場に住む一人の人がイエスが来られたのに気が付き、叫びながらバタバタと走り寄ってきたと言います。「かまわないでくれ、苦しめないでくれ」と叫んでいます。そしてその後には、おびただしい数の豚の群が崖を一気に下り、その地響きが聞こえるやいなや、湖になだれ込んだという話。実に騒がしい様子が目に浮かびます。
このゲラサの人とはどのような人であったのでしょうか。その人は自ら墓場を選ぶ人でした。彼は混乱の中に生き、暴れるということによってその苦しみを表していました。しかし、彼自身が自由を求めていたことは、鎖や足かせを引きちぎるほどで、しかもそれが度々のことであったことからも分かります。しかし何に捕らわれているのかさえ自分でも分からずにいる、そういう苦しみが現れています。
また、ここには解き放たれることを拒む姿があります。自分の方から、かまわないでくれと言います。そう言わせているのは本心ではないのですが、自ら墓の中に閉じこもることを選ぶのです。悪い状況と共依存の状態にあると言うことができると思います。そして本人も、周りの者も助けることはできないがんじがらめの状況にあります。そのような何重もの鎖を身にまとって生きざるを得ない、そういうゲラサの人でした。
さて、私たちの今日の状況から少し考えてみると、人をその人らしく生き生きと生活させることを許さない、そういう鎖や足かせのようなものというのは、広い意味で言えば私たちの社会においてもあるように思います。
以前、『こころの友』に掲載されていた、ある文章を思い出しました。渥美由喜さんという人の連載で、その号のタイトルは「汗のデトックス効果」(2016年4月号)。少し紹介したいと思います。渥美さんは、週末に近所の公園で「青空子ども会」を20年ほど前に始められました。「子ども会には、家庭にさまざまな問題を抱えている子がやってきます。最初はおとなしくても、やがて罵詈雑言の嵐が吹き荒れます。小学校に入ったばかりの子が何か気にくわないと、「死ね」「死んじまえ」のオンパレード。……とはいえ、放っておくわけにはいきません。毒のある言葉は、あっという間に他の子どもたちに伝染しかねないからです。……全力でその子に向き合います。サッカーのPK戦でも、ドッジボールでも何でもいいので、身体を動かすところまで持ち込めればしめたもの。一緒に動き回り汗を流していくうちに、徐々に言葉の毒は抜け始めます。これを私は『汗のデトックス効果』と読んでいます」。デトックス効果というのは、元は医学用語の解毒作用という意味で、広くは人が悪い状態から解放されて自由になることをデトックスと言い、あるいはデトックスが必要だと言います。
そういうことを、共に体を動かして汗をかくということで行い、渥美さんはそれを汗のデトックスと呼んだわけです。悪い言葉を口にする子どもたちは、家庭でも、そういう言葉を毎日親から浴びせられるような事情にあり、そのような子どもたちと真剣勝負で体当たりして一緒に汗を流すのだと言います。そのことで、その子どもの中で解毒作用が起こり、変わっていく様子を目にすることができると、渥美さんは地道な活動をされているのです。また最近の様子については「年々、デトックスに時間がかかるようになり、傷の根の深い子どもたちが増えているように感じられ、時折、無力感に襲われます。でも、やらないよりはやったほうがいいと自分に言い聞かせています」と。全体から見たら微々たる活動であるかもしれませんが、一人一人はかけがえのない存在であり、地道にこつこつと、薄皮を一枚一枚はがすようなそういう働きが必要であることを思わされます。現実の社会はうめき、負の連鎖が止まらないようなところにおいて、今日の聖書の話に出てくるようなイエスの働きが切に求められてはいないでしょうか。そして、信仰の目で見た時に、実は主イエスご自身が、今日もそういった状況に向き合っておられるのではないかと思うのです。
さて、今日の聖書の箇所で「名は何というのか」とのイエスの問いに対して、レギオンであると汚れた霊が答えます。このレギオンとは古代ローマの一軍団を意味します。一軍団の兵士の数は4千~6千人で、汚れた霊が「大勢だから」と言うのはそのためです。また、色々と調べていくと興味深いことが分かります。当時第十軍団「海峡隊」という、海の戦いに強いことで有名なローマの軍団があり、彼らのシンボルは、実に豚であったことが知られています。そう考えると、そのレギオンがおびただしい数の豚に入って、得意としていた海の中でおぼれてしまうというのは、何とも皮肉な話であるということになってきます。実際当時の人々は、これをどのように聞いたのだろうかと想像します。
友人に、インドの牧師がいまして、以前一緒に勉強をする中でいろいろと刺激を受けたことを思い出しました。彼はインドの中でも東部のミゾラム州という地域の牧師なのですが、ミゾラムという地域は過去にインドに併合されたため、昔から人々は常に戦ってインドの支配に抵抗してきたのだそうです。またそれに加え、イギリスからも植民地として支配されて二重に脅かされ、人々の意識の中には、土地が自分たちのものであるということが決してあたりまえでない状況があったと言います。そういう歴史を持つところの牧師からすると、福音書は拍手喝采の物語だと言います。今日のところでは、ゲラサの人を自分達と重ね合わせ、自分たちを長い間苦しませた鎖や足かせは、今や解き放たれたのだという意味で福音書は力ある書物だと言うのです。聖書を受け止めるリアリティーが違うと思わされました。そう考えると、私たちには一方でこの世の中の現実によく目を留め、他方で聖書についても目を凝らし、その両方を照らし合わせるようにして見ることが大切ではないかと思わされます。また、聖書が一人一人の状況において、生きたメッセージを放っていることを改めて教えられます。
今日の聖書の話の中で、一連の出来事の後に、成り行きを見ていた人たちは、イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出しました。あまりに圧倒されて恐怖を覚えたのでしょうか。へたをしたら自分達もローマに目を付けられるということもあったことでしょう。またもしかすると、どのような良い活動であっても、彼らはそういう宗教じみた活動は自分たちの地域ではお断りしたい、とにかく、自分たちの生活の秩序が乱されては困るということであったかもしれません。そういう形で、「ご遠慮ねがいたい」ということであれば、これは今日でも実に同じような風潮があるように思います。
しかし、そういう中にあって、イエスはどうされたのかというと、イエスご自身はあまり無理をされなかったような印象を受けます。むしろその後の働きについては、癒された人に託されたのでした。あとはよろしく頼んだという形で「ことごとく知らせなさい」と言われます。今日の話を見ると、その後、活躍するのは、イエスではなくてこの解放されて変えられた本人なのです。
私たちのこの地上の人間社会には、負の連鎖があり、主がその悲しみを断ち切って下さることを祈らずにはおれません。それは先の言葉で言えば「祈りのデトックス効果」が必要であるといってもよいのではないでしょうか。世の悲惨なニュースを聞き、主がそれを取り除いて下さるように祈りたいと思います。また、そのために先にキリスト者とされた者の務めがあると思うのです。今日の箇所では、主イエスの為さったことの様子について、地響きと水しぶきを上げるような情景として示されています。私たちは、世に対して主が為して下さるそのような神様の熱意を抱きつつ、祈る者でありたいと思います。世にあって、それぞれの置かれた所において、隣人のために祈り、遣わされる者とされたいと思います。 アーメン
(2017年5月28日 礼拝説教要旨)