《 マタイによる福音書12章15~21節 》
今日は、聖書に出てくる植物の葦のお話です。葦というのは日本にも川などに群生していますが、聖書の土地に生えていたものは背丈が六メートルにも達する葦で、折れやすいのだそうです。ですから籠などを編むには葦は適していなく、パピルスなどの方が重宝されたようです。聖書にはこんな表現が出てきます。「折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それは寄りかかる者の手を刺し貫くだけ。」(列王記下18章21節)すぐに折れてしまうので頼りにならないと。そして、今日の箇所の「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」とは、神様から見て葦のようなそんな私たちでも、それを捨ててしまうことなく、いとおしみ大切にして下さると言います。傷ついた私たちを見捨てることなくいたわって下さると言うのです。
また、灯心がくすぶっているのは、油が切れかかっていて、ランプの炎が風前の灯火のようになっていること。つまり生きる力が絶え入りそうになっていることです。しかし神様は、そういう命に目を留められ、あきらめずに再び油を注いで、新しい力を与えて下さる。それが復活への道であるわけです。実に人々の生活の中にあるもの、またそこに息づいている言葉を使っていると言ってもよいかと思います。
みなさんは、ケセン語聖書という聖書があることをお聞きになったことがあるでしょうか。岩手の気仙地方に住む医師、山浦玄嗣さんは、ひとりこつこつと自分のふるさとの言葉で聖書を翻訳してしまったのです。山浦さんによれば、現在私たちが手にしている聖書は日本語の現実とかけ離れて直訳的であり、聖書独特の専門用語に満ち、素朴なケセンの仲間にはまるで心に響いてこないと言います。そして、山浦さんはギリシア語を独学するところから始めて聖書原典からケセン語に翻訳しました。まさに人々の生活の中に聖書の言葉を届けようとしたわけです。
それは、ふるさとの言葉を大切にしようという動きとあいまって、聖書の息吹を自分達の言葉で取り戻す勢いに乗っていた頃のことだと言います。四福音書の翻訳の合本が五年余りの歳月をかけて完成しようとしていた最終校正の段階になっていた時、あの大津波が大船渡市を襲い、出版元の会社は壊滅し、一切を失ったそうです。しかし大船渡町のがれきの中から、奇跡的にと思えるように、泥に埋もれたケセン語聖書が三千冊ほど出てきたと言います。津波の影響で本は波打って曲がってしまい、一時は全て破棄しなくてはならないと暗澹とした気持ちになったそうですが、後に、それを聞きつけた人々から大津波を耐えた聖書としてぜひ保存をとの声が上がり、さらには海外からも注文が殺到し、後に数か月で売り切れになったそうです。まさに、傷ついた葦を折らず、それらを折って捨ててしまってはいけないということの象徴のような出来事であったと思います。
ちなみに、今日の聖書の箇所をケセン語で読むと、こういう響きになります。山浦さんの朗読を何度か聞いてみました。
「かいやぉ、そずだからって、おっぱずったりもしねぇし
あがしぁ いぶってっからって、消したりもしねぇ」
「おっぱずる」というのは、へし折るとの意味で、決してそのようにはしない。また、「あがしぁ いぶってる」とは、灯りが、くすぶっている。けれどもそれを吹き消したりはしない。
「そうして、しめえに正しいことは勝つ。他(ほか)さぁだぁ、この者さ、望みにかける。」
山浦さんは、順番も原文に忠実で、20節の「正義を勝利に導くまで」という言葉を、原文通りに後にもっていきます。「しめぇに正しいことは勝つ」、それゆえに、「この者に、望みをかける」と。
聖書の時代には、ローマ帝国による支配とユダヤ教の権威者たちによって虐げられ、傷つきボロボロになっていた多くの民衆が、そこにはいました。彼らは、当然ガリラヤ地方の方言を話していましたし、その彼らが自分たちの生活の言葉で希望を語ったのも間違いないことです。そして、私たちも、そのようにして実生活の中から身近に聖書を受け止めることができるなら、改めての味わいと深みを与えられ、さらには、イエス・キリストに望みをかけることにについて、より確信を深めることができるのではないでしょうか。また、そこにはファリサイ派という、宗教の名で人のつくった枠組みを命よりも重んずる人々がいました。そのことを考えると、イエス・キリストのあり方は実に対照的です。消えかかっていて、ふっと吹けば消えてしまいそうな火を、消さないようにする。それは人を支える、ということであることかと思います。傷ついた葦を決して折らない、とは人を守ることであると思います。そこには当然強い決意があることを思います。その人が、優しくて単に人がいい、ということでなくて、むしろ本当の強さがあってこそではないでしょうか。「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た。命を捧げるために来た」と主イエスはおっしゃいました。自分を捨てて、救うと。私たちは、そこに本当の強さを見ないでしょうか。どのような状況にあっても、真の愛は人を、傷ついた葦やくすぶる灯心を、生かすものであるのです。
私たちも、またそのような心をもって、それぞれが置かれた場で周りにいる人たちに接したいと思います。そして、この柔和な主イエスが今日も傷ついた葦のような私たちを、また今にも風で火が消え入りそうな状態にある私たちも、招いておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)困難の中で、一人忍耐し、くたくたになる時、この主イエスの招きに、何度でも応じていきたいと思うのです。そこに真の慰めと平安があることを心に留めて、過ごしていきたいと思います。
(2017年3月12日 礼拝説教要旨)