《 ヘブライ人への手紙 12章1~2節 》
昨日の雨風も止みまして、5月の気持ちのよい季節に、こうして墓前に集うことが許されました。屋外で礼拝していると、「普段の日曜日も、天気の良い日は、どこか自然の中へ出て行って礼拝をすると、きっと神様の恵みをより大きく近く感じられるのではないかなぁ」とも想像したりしますが、今日は、そういう意味では、普段とは違う恵みを頂くことのできる、神様によって与えられた、備えられた日としてこの時をまもりたいと思います。
こうして墓前に集うことについて、ふと思うのですけれども、わたしたちはどうして「墓前」で礼拝をするのでしょうか。すでに召された方々というのは、今は神様と共におられるので、わたしたちキリストを信じる者にとっては、先に召されたあの方、この方が神様の平安の内にあるということだけで十分であるわけですし、他の宗教のようにそれらの人たちを祭ったりすることもないわけです。
また、最近では何の信仰も持たず、お墓などいらないという人も増えているようです。そういった考え方がむしろ現代的であるとさえ考える人も多くなってきているかもしれません。しかし、それでもわたしたちは、やはりこの場所がわたしたちにとって大事であるからこそ集っているのではないかと思います。
教会墓地というのはわたしたちにやはり安心感を与えてくれますので、そのことはとても大切なことかもしれません。しかし、今日は改めてこの聖書の箇所を読み、わたしたちの前を常に走って行かれた方々のことや、あるいは共に歩みつつ先に召された方々のことを思い起こしながら、その箇所を聞きたいと思います。
今日のこの箇所では、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれ」とあるように、著者は旧約聖書から、ノアもアブラハムも、モーセもダビデも、また名もなき数多くの信仰者たちのことを列挙した上で、それらの人々の歩みに励まされて、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と述べています。ここに「自分に定められている」とあるように、わたしたちには、一人一人に「定められた」歩みがある、ということを教えられます。
先程、わたしたちはここに埋葬された方々のお名前が読み上げられるのを聞き、また、ここには埋葬されておられなくても、やはり心の中でそれらの方々のお名前を心に留めたことと思います。私も墓誌のお名前の記録を拝見し、中には長寿を全うされた方もおられれば、若さ真っ盛りで本当にこれからという時に召された方もおられ、また、生後間もなく一歳の誕生日を迎えられる前に、おそらく神様の御腕に抱かれるように召されていった小さな命があったことをも知らされました。お一人お一人に神様から与えられた歩みがあったことを思います。そして、その歩みの中で、喜びも、そしてまた小さな背中には背負い切れないような苦労もあったことと思います。しかし、わたしたちは、やはりそこに神様の御恵みが常に注がれていたことをも心に留めたいと思うのです。
今日、このあと共に讃美する385の讃美歌は、永眠者記念日によく歌われる讃美歌ですけれども、やはりこの墓前礼拝においてもふさわしい讃美歌ではないかと思います。「花彩る春を、この友は生きた」という歌い出しで、同じ様に各節の出だしが春夏秋冬になっています。その美しい季節を「この友は生きた」とありますので、一見、召されていった友のことを思う歌のようにも思えるのですけれども、それだけではないのです。むしろその友の姿を思う時、この私を主の道へ導く、という歌詞になっていることに気付きます。そして、最後は「この日、目を閉じれば 思い浮かぶのは この友を包んだ 主の光。」となっています。ふと目を閉じて思い浮かぶのは、召されていったその友のこと、また、その方の多くの喜びと苦労のあった歩みであり、そして、そこにはその友を包んだ主の光、つまり神様の愛が常に注がれていたと、歌います。
わたしたちの実際に前を走っていたその友である前走者について思い起こす時、ある方は信仰的にも立派で、本当に見習いたいと思える歩みをされたかもしれません。また、ある方は家族や隣人に対してとても優しく献身的なお方であったかもしれません。あるいはまた、その方とは信仰の話は特別にしたことがなかったかもしれないけれども、自分に何らかの感化を与えた存在であったかもしれません。やはりどのような場合であっても、その方がなければ今の私はない、ということのゆえにわたしたちはこうして墓前に立っているのかもしれません。
自分のことで恐縮ですけれども、私の父も実はこの霊園の墓地に入っていまして、ちょうど反対側の場所に位置していますけれども、どうも振り返ればあまり理想的な関係ではなかったような気がします。よくある事かもしれませんが、私が牧師になる事にも反対した父でした。しかし、それでもやはり神様の守りがあったからこそ、今自分がここにいることを認めざるを得ませんし、また、もっと目を凝らすべきことは、自分よりも前を走っていったその前走者の上に神様の愛が注がれていた、主の光がそこに常にあったのだということを、自分もまた、今日はそれを聞く側にいます。
「こういうわけで……自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」実に、こういうわけで、であるのです。つまり神様の恵みが、わたしたちのおぼえる、お一人お一人の上に注がれていたことをおぼえて、わたしたちもまた「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り抜こうではないかと、告げられています。ただ闇雲に走るのではなく「イエスを見つめながら」走ることが大切であり、やはり既に召された方々のことを思い起こし、その歩みを見つめる時に、わたしたちはふと気付くと神様のその方に対する恵みを思い、イエスを見つめている、ということになるのではないかと思います。
わたしたちが、やはり墓前に立つということの大切さとは、そこに記されたお一人お一人の歩みに今一度目を留めるということでありますし、そしてさらに導かれるようにして、誘われるようにして、目を神様の方に向ける、また主イエスに向けるということであると思います。
そして御言葉には、主イエスは「信仰の創始者であり、完成者である」とあります。わたしたちは、つい信仰とは自分の所有するものと考え、信仰が弱いまたは強いと言いますけれども、御言葉によれば、わたしたちの内に働きかけて信仰を与え、またその信仰を完成させて下さる主イエスであると教えられます。つまり主が責任を持ってわたしたちの信仰そのものを導いて下さるというのです。
わたしたちは、この主イエスを見つめながら、一人一人に与えられ、定められた道を、精一杯歩んで行きたいと思います。アーメン
(2016年5月5日 礼拝説教要旨)