《 申命記 24章14~15節、マタイによる福音書 20章1~16節 》
マタイによる福音書20章1節以下は、主イエスが語られた一つの「天の国のたとえ」を記しています。どなたも、聖書を読む時に、そこに書かれていることが何を指しているのか、また誰を示しているのかということを、問題にされると思います。福音書の「たとえ話」などは、特にそうだと思います。でも大切なことは、自分は一体聖書の中に登場する誰と同じだとみなすのか、つまり、同一化(アイデンティファイ)して読んでいるかということではないでしょうか。今日は、そのことを心に留め置いて、聖書に聴いてまいりましょう。
ぶどう園を経営する一人の主人がおりました。彼は、そのぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに、朝早く5時か6時頃に家を出て、日雇い労働者が職を求めて集まっている広場に出かけます。そこに集まっている人々に呼びかけ、「1日につき1デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。
この「1日につき1デナリオン」という賃金は、当時の平均的な賃金でありまして、本人とその家族が、贅沢をしなければ、何とか一日食べて生活していけるだけの金額です。広場でその日の職を求めていた人は、喜んでぶどう園に働きにいきます。さらに主人は9時頃に、12時頃に、3時頃にも足しげく広場に出かけ、働き場所を求めて立っている人々に「あなた方にもふさわしい賃金を支払おう」と言ってぶどう園に送ります。そして、ユダヤ社会で日付が変わろうとする1時間前、しかも労働することができるわずか1時間前の午後5時頃にも、広場に行き、「誰も雇ってくれる人がいないのです」と言って「何もしないで」立っている人々を雇って、ぶどう園に送ります。なお、午後5時頃雇った者には、賃金の額について、主人は約束をしていないのです。
また、申命記24章15節に、「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい」という規定があります。労働時間が終わり、主人は趣旨をよく理解して、規定どおりに「日没前に」その日の賃金を払います。賃金の支払いが始まります。今日働いた人々が皆、集まってきました。
ところで、ぶどう園の主人は、私たちの常識ではちょっと理解しづらい不思議なことを二つします。
その一つは、最後に雇われた者から、最初に賃金を支払ったことです。最初に来た者は、最後に賃金をもらったのです。これは順序が逆ではないでしょうか。なぜ、このようなことをしたのか。主人の考えはどこにあるのかということです。今日の聖句の最後は、16節ですけれど、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉で結ばれています。一番後に雇われた者が、一番先に支払われる。そこには、主人の温かい思い、はからい、そして配慮があったと思います。神の自由なる恵みの選びの所以であります。夜明けから働いた人たちは、朝一番で主人と出会い、雇ってもらいました。確かに一日中の労苦を負いましたし、日中の暑さを忍んで働いたわけですから、それなりに大変であったと思います。彼らは、最終的には支払いのことで文句を言いましたが、本当はとても幸せな立場ではなかったでしょうか。朝と共に仕事にありつけ、1デナリオンもらえるという約束までしていただいたのです。そして、今日一日は安心して生きていけるという、保証された人生を送ることができているのです。ですから、とても喜んでもよいことではないかと思います。
でも一方、12時間のうち11時間まで、生きるすべを求めてさすらい歩き、そして、すべての可能性が閉ざされて、悄然として広場に佇んでいた人たちの焦りと不安、そして孤独と悲しみ。それを、ぶどう園の主人は理解をしたわけです。「どんなにか淋しかったであろう。どんなにか悲しかったであろう。さあさあ、まずお前から賃金を払ってやろう」というわけです。見捨てられたと言ってもよい最後の者が、一番先に賃金をもらうという焦点であり逆説が語られているのです。
もう一つ理解しづらい不思議なことは、12時間働いた者も、たったの1時間しか働かなかった者も、同一賃金の1デナリオンをもらったということです。もしも合理的に考えるならば、最初から12時間働いた労働者と比較すると、最後の人々は12分の1デナリオンということになります。先ほど申しましたように、最低賃金の12分の1では、もはや生きることができないお金でしかないのです。したがって、1デナリオンというのは、本人と家族の者がこの一日を生きる命の値でもあります。生きるためには、デナリオン一つがどうしても必要であるという命の値です。命の値に差別があるのか。命の値に差別をつけることができるだろうか。不幸にして僅かな時間しか働くことができなかった「最後の者」も、神によって命を与えられた、神の良い被造物としてふさわしく、そして神の摂理の対象として生きていかねばならないのです。このことがぶどう園の主人の考えでありました。
ところで、朝早くから働いた人が、主人に不平を言いました。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不満を爆発させたのです。しかし主人は、不平や不満に少しも動じることなく、はっきりと答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と。そこには、断固としたぶどう園の主人の意思が表れているように思います。一人一人に約束した通りに払ってあるはずだ。何の不正もしてはいない。「自分の分を受け取って帰りなさい」と。このぶどう園の主人の発言の裏には、どんなにあがいても仕事を得られなかった、最後の者に対する暖かな眼差しがあったと言えるのではないかと思います。
さらにもう一つのことに触れます。この物語で特に印象に残るものとして、労働者を雇うために5回も広場に出かけた主人の姿であります。この労働者たちは日雇い労働者です。つまり自分に、今日一日の生存・生命を保証してくれるような主人がいなければ、虚しく立って、失業せざるをえない者たちでありました。また、ぶどう園には常勤の労働者がいたと思います。でも収穫期であったので、人手がたりない。そこで主人は、夜明けに広場に出かけて労働者を雇った。これで、労働力は満たされたと想像できるのです。でも、9時頃、12時頃、3時頃、そして最後の5時頃に雇われた者たちは、明らかにぶどう園の人手不足によるための雇用ではないと思います。それよりは、主人は仕事にありつけないでいる者たちのことが気になって、どうしようもなかった。ですから、机に向かって仕事のことなど考えておれなかったと思います。それで、広場に出かけていったのです。予想したとおり、雇ってくれる人を見出せなくて虚しく立っている者たちがいました。そしてまずもって、この者たちをぶどう園に送ったのです。「何もしないで一日中広場に立っている」この人たちも働いて、家族を養い、社会的な責任をも果たしたいのです。しかし、雇ってくれる人は誰もいない。暗い思いをもって、一日中空しく「何もしない」で過ごすしかできないのです。このような人々にも、主人は職を与え、彼らをぶどう園に送ります。主人を見出しえない者への愛、深い同情以外の何物でもないと思います。
ところで、このように不平を言う労働者たちに向かって、ぶどう園の主人は思いもかけないことを言います。その言葉はまた、この私たちに向かって語られているものであります。主人の言った二つの言葉に注目してみましょう。
その一つです。賃金の支払いに際して、最後に働き始めた者から支払いが行われます。1時間しか働かなかった者が、まる一日の賃金1デナリオンをもらったのです。それを見ていた、より長い時間働いた者は、当然、自分たちにはそれ以上の賃金がもらえるものと期待をします。ところが彼らも、同じように1デナリオンしかもらえませんでした。当然、彼らにはねたみの心が湧出してきました。そこで主人は、この労働者たちに、「わたしの気前のよさをねたむのか」と言ったのです。ここに訳されている「ねたましく思う」という言葉、原文では「目が悪い」と訳すことができるのです。ですから、「あなたの目は悪いのか」と主人は労働者に問うているのです。
「目が悪い」と言う言葉を耳にしますと、思い起こされる聖書の箇所があります。それは、マタイによる福音書6章22~23節でありまして、そこには、山上の説教として主イエスが語られた言葉、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」があります。この20章との関連から考えて見ますと、この6章における主イエスが語る、人生を真っ暗にしてしまうような私たちの心の目が、どこでまずおかしくなるかと言うと、「ねたむ」ことによるのであろうということに気がつきます。人の目は、自分自身と他の人を眺めます。そして比べます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され自分が不当に扱われていると思って不満を抱きます。そのために、見るべきものがよく見えない。目つきも視力も悪くなってしまう。それが人生全体を真っ暗にし、絶望に誘っていくのであるというのです。そのようにして、人の心の奥深くに潜んでいる、自己を追い求める「罪」が、頭を持ち上げてくるのです。ですから、そのことをよく承知している主人は、心の底にあるものを見抜いて、不平不満を言っている人々に対して、「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と、皮肉混じりに問い返したのです。言葉を変えて言いますと、「あなたに対する愛の業が見えないのか」と主人は言われたのです。
二つ目の言葉です。14節「この最後の者にも」という言葉に注目しましょう。6節以下に、「5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った」とあります。「食べる物がないのです」「お金がないのです」とは言いませんでした。彼らはこの自分を雇ってくれる人、別の言い方をするならば、自分の主人がいない。主人を得られないままに、日付が変わろうとする1時間まえの5時になってしまったのです。雇い主のいない生活、主人のいない人生は、自由なようではあるが、実は虚無に立ち尽くす日々です。その者たちは、「あなた方も、ぶどう園に行きなさい。たとえ一時間でもよい。ぶどう一房でもよい」と主人に語りかけられ、そして夕方になって支払われたのは、思いもかけなかった一日分の生活費に足りる報酬でした。主人は、不平を言って朝から働いた労働者に、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言明するのです。主人の愛の大きさ・広さ・深さです。言葉を変えて言いますと、主イエスは人々に真の主人をさし示すのです。
この物語で、マタイ福音書記者は、生前の主イエスと弟子たちとの関係と同時に、復活の主イエス・キリストと私たち教会員との関係を常に二重にして描き、その関係を問うているのです。私たちは、イエス・キリストによって見出され、教会に招かれました。主イエスによって救われ、永遠の命の望みに生きることができるのです。このたとえを通じて、実は私たち自身が、その最後の者として扱われていることを覚えたいのです。そのとき私たちは、言い知れぬ大きな喜びと感謝に包まれます。
でも私たちは、揺れ動きながら進む、激しい競争の時代の中に生きていますから、時にはそれを忘れてしまって、いつのまにか、私たちを朝早くからきて働く人に置き換えて読んでしまうのではないかと思うのです。そして、あげくのはてに不平を言った労働者と同じ考え方になって呟いてしまうことがあるのではないでしょうか。そんな時、ぶどう園の中に迎え入れられていることを、もう一度深く感謝をすると共に、主イエスはこの私のために十字架に架かってくださって、この私を「最後の者」として愛してくださったことを想い起こしたいと思います。
宗教改革者カルヴァンが、彼の教理問答の冒頭で、人生の目的について、それは「神を知ることである」と言っています。また、どこに人間の幸福があるのかということについて、それは「同様に神を知ることの中にある」と言っているのです。この新しい一週も、ここからそれぞれの場に遣わされていきたいと思います。
【近藤国親牧師】
(2023年1月29日 主日礼拝・説教要旨)