キリストに従う―本当の自分を見出すために

《 ルカによる福音書 5章1~11節 》
 イエスさまの最初の弟子たちの多くは、漁師でした。そのため、福音書には漁の場面がよく見られます。これは、イエスさまが人間として生きておられた時の現実を表している場面と言えますが、同時にそれは、キリスト教が世界に向かってキリストを宣べ伝えるようになった時代の教会の現実を示してもいる、すなわち、この漁の話は、文字通りの漁というだけでなく、別の意味の漁、つまり、宣教・伝道を指していると見ることもできるのです。
 ペトロを始め弟子たちは、復活のイエスさまと出会い、聖霊を受けた後、宣教に励みました。その結果、多くの人々はキリストを信じるようになりましたが、いつも伝道が成功したというわけではなかった。むしろ、キリストの復活のことなどは全く信じない人たちも多かった。そのような時、弟子たちは無力感に打ちのめされるような思いも味わったのです。
 宣教は、人が神の言葉に従って行うことですが、人間の側の決断、また能力や努力によって行うことでもありますから、自分の力で成し遂げた、という気持ちにもなることがある。実際に、パウロやペトロといった使徒たちは、それぞれに特別な能力、賜物をもった人たちでした。そうした人間的な一面があることは確かですが、それでも宣教は、本質的にはやはり人間の力によるものではないのです。そのことは、使徒たちの働きを記した使徒言行録には、例えばコルネリウス物語(使徒10章)などに見られる異教徒の回心が、使徒たちの力によってではなく、神の力、聖霊の力によるものであったことが明確に記されています。それまでキリストヘの信仰を持たなかった異邦人が聖霊を受けたのを目の当たりにした時、ペトロはこう言わざるを得なかった。すなわち「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(使徒10章47節)と。
 今日の聖書箇所は、どんなに頑張っても魚一匹とれなかった弟子たちが、キリストの言葉に従って網を降ろしてみたところ、舟いっぱいの魚がとれたという奇跡物語ですが、この物語の終わりのところで、ペトロがキリストから、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われたことに示されているように、またこの説教の始めのところで申し上げましたように、この物語は、弟子としての召命ということに関するものとみることもできますので、以下そのことを主題として話を進めてまいります。
 イエスさまに従って生きる、それはペトロたちにとって当初、人間的にも輝かしいことのように思えたのです。だからこそ、イエスさまがご自身の身に迫っている十字架の死について予言された時、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(マルコ8章32節)のです。キリストの弟子として生きることは、苦難・犠牲なしにはあり得ないということを、イエスさまは次のように語っておられる。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか』」(マルコ8章34~36節)。
(改行)この箇所には、理解困難な言葉があります。それは「自分の命」という言葉の意味です。初めの「自分の命を救いたい」(35節)に見られる「自分の命」を、New English Bible は「自分の安全」と訳しています。イエスさまに従って生きることは、常に安全とは限りません。したがって、安全が百パーセント保証されなければ従えない、ということになれば、キリスト者として生きることは難しいということです。しかし、苦難・犠牲を覚悟して従えば、そこで得られるものがある。それは、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(36節)のところで言われている「自分の命」のことです。そして、この場合の「自分の命」をNew English Bibleは、何と「本当の自分」と訳しているのです。キリストに従うことには安全を失うということがある。けれども、その代わりにわたしたちは「本当の自分」を見出すことができる、というのです。これらのNew English Bible の訳は意訳ですが、イエスさまの言わんとされたことを正しく訳していると言えると思います。
 この「本当の自分」ということに関し、少し聖書から離れますが、渡辺京二という方の本の中に、興味深い言葉がありましたので、紹介させていただきたい。渡辺京二は、思想史がご専門の方です。彼はキリスト者ではありませんが、「本当の自分」ということについて、深みのあることを語っています。彼は文筆の仕事の傍ら、長く予備校で現代文の講師を務めました。ある時、担当した東大を受験する生徒が多いクラスで、彼は生徒たちにこう言った。「君たちは東大に入り、卒業したのちにはそれなりに指導的な立場につき、肩書がつくでしょう。職業人として肩書にふさわしい働きをすることも大事ですが、その一方で、肩書のない自分が本当の自分であることを、いつも心の片隅に持っていてほしい」―このように語った。「すると、あとで握手を求めに来た生徒が何人かいました」。さらに、次のようなことも言われた。「みんな一皮むいて見れば、ただの人間だとは、仏法が説く世界であり、キリスト教が教える世界です。集団の中の地位とか、業績であるとか、権力であるとかは消え去って、宇宙の光が注いでいるだけ。そういう世界が真実の世界であることを、昔の人はみんな知っていたのではないか。そうであれば、誰もが誇りをもって生きられたでしょう。渡し守で一生を終えても、なんの悔いもなかったでしょう。そしてそういう人は今もいるのです。」(渡辺京二『無名の人生』170~171ページ)。
 聖書には、「神の国」あるいは「天の国」についてイエスさまが語られた箇所が数多くあります。長い間キリスト者として生きていれば、この「神の国」の意味を知っていて当然なのかもしれません。しかし、「神の国」という言葉は、なにやら壮大な感じのする言葉です。それは天上の世界のことなのでしょうか。どうもとらえどころがない言葉のようでもあります。しかし、イエスさまはもっと身近なこととしてこの「神の国」について語ったのではないでしょうか。その一例として、聖書の次の箇所を引用させてもらいたいと思います。人々が子供たちをイエスさまのもとに連れて来たのを弟子たちが叱った。その時、イエスさまは憤ってこう言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10章14節)。この小さな子供たち、それは文字通りの子供たちだけでなく、この世で「小さくされている、名もない、貧しい人々」、そして「懸命に日々を生きている人たち」、そのような人たちのことをもイエスさまは示唆していたのではないだろうか、そのように思えたのです。神の国が、このようなごく普通の人々の生によって代表されるものなのであれば、今私たちが生きている日々の現実、交わりのうちにも、神の国が実現する可能性があると言えないでしょうか。
 わたしは牧師の務めをしながら、二十年間ほど神学校の教師をしました。その教員生活の中で特に印象に残った経験があります。それは、私が勤めていた神学校と交流プログラムを実施していたフィリピンのシリマン大学神学校で、その神学校の教師から伺った「フィリピン教会の苦闘の神学」と題するお話でした。フィリピンは今も経済的に貧しい国です。社会の頂点にいる、ほんのわずかの富裕層の人々、その下にいるミドルクラスの人々、そしてその下の貧しい人々という構図です。この貧しい人々の数は大変多い。そのため、貧しい人たちの現実と関わりを持たなければ、教会は宣教できないということでした。貧しい人々の中には、文字の読み書きのできない人もかなり多い。したがって、知識という点では劣っているかもしれない。しかし、そうした人々の心には深い神学があるのだ、というお話でした。神学と言うと、何やら高尚な学問という響きがあるのですが、神学の本質は信仰です。ですから、たとえ文字の読み書きができなくても、深い信仰に支えられた神学が彼らの心には宿っている、ということがあるのです。わたしたちが誇るべきこと、それは決して知識ではない。誇るべきは、キリストであり、キリストヘの信仰なのです。
 最後に、祈りについて書かれた本の中から、次のような祈りのことばを引用させていただきます。「祈り、また働いても、実りの少ないことがしばしばあります。私たちは、簡単に失望したり、落胆したりします。どうか目先の結果を求めず、ひたすら神さまがもとめておられることを追い求め、語るべきことを語り、黙して祈る時は沈黙を守り、社会の片隅の小さな声を聞き逃すことがないように、わたしたちを導いてください。私たちは人間の力を過信し、自分の正しさのみを主張し、知らず知らずのうちに傲慢になり、キリストの教会に分裂を引き起こしてしまいます。どうかあなたにおいて一つとされ、共々に足らざるを補い合って、真の教会としてこの世に生かしめてください」

【鈴木脩平牧師】
(2023年1月15日 主日礼拝・説教要旨)