《 マタイによる福音書 5章7~12節 》
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
私は山形県の鶴岡市出身で、60年以上前になりますが、生家にはよく托鉢(たくはつ)が回って来ていました。子ども心に珍しさのあまり、来てから帰るまでずっと眺めていました。修行僧が一人で、墨色の袈裟を着て丸い托鉢傘をかぶり、1軒ずつ回ってきます。玄関前にやってくると持鈴を鳴らして家人に知らせました。私の生家では、祖母が鈴の音に気づいて家の中から出ていくと、僧が持っている鉢を差し出します。今では500円から3000円のお金を入れるのでしょうが、当時祖母は、ご飯茶碗1杯分のお米を鉢に入れていました。そうすると僧は、持っていた頭陀袋に米をしまいます。修行僧はそのように物をもらい歩くのですが、托鉢の場合は物貰いの修行ではありません。貰ってもお礼は言いません。なぜなら托鉢は浄財を捧げる人の修行なのです。衣食住に対する執着を捨て、惜しまず持ち物を捧げ、生きていくことを他人に委ねる大切な修行です。だから、自分をささげて生きる訓練とも言うべきものです。一般に、日本人の道徳観は、他人から憐れんでもらい同情され、お金や物をもらわないように教えられるのではないでしょうか。つまり、簡単にお金を恵んでもらわないように教えられるのです。これは、人から憐れんでもらうことが、高い所から低い所へ施しを受ける印象があるからです。
7節に「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」とありますが、この「憐れみ」という言葉は施しという意味ではありません。「憐れむ」は、旧約聖書ではヘブライ語でヘセドと言います。ヘセドとは他人の心の中を慮り、その人が感じるように感じることであると言われます。相手の気持ちを思いやり、相手が感じることや考えることを大切にして、時間をかけて配慮し、相手の意志や考えを尊重することです。一方、新約聖書では、ギリシャ語のエレオスが「憐れみ」に相当し、神様の憐れみは救いの業そのものであり、キリストを通して与えられます。さらに「憐れむ」という言葉の大切な意味は、憐れみの感情を持つことだけではありません。苦しんでいる人に同情して、憐れみの心を持つことは人間として必要ですが、「憐れむ」の本当の意味は、援助の手を差し伸べることなのです。心で同情するだけでは憐れむことにはなりません。「憐れむ」とは、具体的に行動を起こすことです。そのように神様は、人間に「憐れみ」を要求しています。
他者を憐れむことについて、マタイ福音書23章23節では、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香(らいきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」とあります。ここでは憐れみ深いことが、律法、神様の戒めの中で一番重要なものであると述べられています。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、人間が苦しんだり悲しんだりするのは罪の報いだと考えていましたから、罪の報いを受けて困難を得ている人々に対して、憐れみ深くあってはならないと考えていました。しかし、憐れみ深いことこそ律法の中でも最も重要なことであるのだから、憐れみ深くない人々は不幸だとイエス様は言われているのです。人は罪の報いにより不幸にあるのだから差別するのは当然で、それゆえ援助の手を差し伸べないとするのは、有力な信仰者たちによる明確な「人間疎外」です。神様によって創造された大切な人間が、誤った信仰によって疎外されていたのです。人間が差別され、固定化され、階層を形成しています。これは何もファリサイ派や律法学者だけの問題ではなく、今の私たちの問題でもあります。私たちも自分の正義感を振りかざし、人を裁き差別し、人間疎外を引き起こす者であります。
イエス様は、自ら十字架にかかって死んで、そのような私たちの奢り高ぶったあらゆる罪を赦し、自由を与えてくださったのです。イエス様の十字架の死こそ、罪の奴隷となっている私たちに対する愛と憐れみの業なのです。イエス様が自ら十字架にかかり、私たちに憐れみを示して下さいました。だから、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあるように、罪の奴隷であったが罪赦され自由になった私たちに対して、イエス様は憐れみ深くあるように求めています。しかし私たちは、求められてもすぐに人を憐れむとことはできません。そこでイエス様は、私たちの父が憐れみ深いことを示しているのです。私たちは、もとより人を憐れむことはできませんが、神様の憐れみをいただくことによって、他者を憐れむことができるのです。憐れみは神様から来るものだからです。
そこで、そのことをくみ取ることができるのが、マタイ福音書18章21節にある「仲間を赦さない家来」のたとえです。王から1万タラントンもの借金を抱えた一人の家来が、王の前に連れてこられました。王はあらゆる持ち物を売り払ってでも金を返すように命じました。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願しました。すると王は憐れに思って、彼を赦し借金を帳消しにしてくれました。しばらくして、その家来は、100デナリオンの金を貸している仲間に出会いました。彼は仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。仲間はひれ伏して、「どうか待ってください。必ず返すから」と懇願しましたが、家来は、彼を牢屋に入れてしまいました。1万タラントンと言えば100デナリオンの60万倍にも相当する金額です。莫大な借金を帳消しにしてもらっているのに、僅かな借金を赦せないで仲間を牢屋に入れるとは惨いことです。他の仲間は薄情な家来を見て、王にありのままを報告しました。王は腹を立て、「不届きな家来だ。お前が頼んだから借金を帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。そして王はその家来を牢屋に入れてしまったのです。王様が家来を憐れんだように、家来も仲間を憐れむべきでした。
なぜ、王の憐れみの心が、家来に伝わらなかったのでしょうか。それは神様に対して、罪を犯して罪の奴隷になっているからです。心が頑なになっていて、自分が負債を赦してもらっているのに、他者の負債まで配慮することができないほど孤立しているからです。共に喜び合うことができなくなっています。それほどに罪にまみれている私たちは、死をもって償うほかはないのです。つまり神様の裁きによって死ななければならなかったのです。ところが、イエス様が十字架に死んでくださったことによって、神様は私たちを憐れんで、一切の罪を赦してくださったのです。それだけではなく、イエス様が死人の中から蘇えられたことによって、私たちは永遠の命をいただいたのです。神様の憐れみによって罪を赦され、永遠の命をいただいているという憐みの本源を知る時、私たち自身も、兄弟に対して憐れみ深くあることができるのです。憐れみ深い人たちは、すでに神様の憐れみを受けています。そうでなければ憐れみ深くあることはできません。そしてさらに人々に対して憐れみを注ぐことによって、神様の憐れみをさらに再び実感することができるのです。私たちは人を愛することによって、神様の愛を経験します。兄弟を赦すことによって神様の赦しを経験するのです。托鉢は、他者に浄財を求めながら自らを捨てる修行です。私たちの神様は、私たちの罪をイエス・キリストの十字架の死によって赦し、復活を通して永遠の命を与えて下さり、罪から心を解き放ち自由にし、他者を憐み、捧げる心を造り出してくださいました。
教会は罪人の集まりでありますし、罪赦された者の集まりであります。赦された者は神様に愛された者でありますから、心が打ち砕かれ自由になった者として、互いに愛し合い支え合うことができるはずです。しかし、現実の教会はそうではありません。仕事において人間関係につかれた人や、家庭に悩みを抱えている人、病に苦しむ人、面倒な生活を送っている人、寂しい人など、キリスト者は様々な困難を抱えています。しかし、キリスト者は修行をした立派な人であらねばならないというような観念にとらわれ、主を賛美し、感謝しつつも、表向きの顔になり、苦悩を秘めながら生きていることがあります。ルターはそのような信仰者に、「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、そして大胆に悔い改め、大胆に祈れ」と言います。見せかけの立派さを誇るファリサイ派や律法学者のような信仰生活は相応しくないと言います。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ」とは、むしろ感謝に代わって嘆さを、喜びに代わって苦しみを告白する者こそ真のキリスト者であると言っています。大胆に苦しみや嘆きを告白し罪人であることに大胆であれといいます。その罪の告白があれば、大胆に悔い改め、大胆に祈ることができるのです。そして罪ゆえの弱さを人の前に表すことができるのです。私たちは、罪を犯すみじめな者であるという告白が大切です。罪を犯すがゆえに、反対に自分をよく見せようとして、差別する者であることを告白します。その憐れみ深くない私たちのために、イエス様は私たちの罪と罪による不幸を一身に引き受けて、十字架の苦しみを担ってくださいました。教会では皆、イエス様の憐れみを受けています。私たちは憐れみを互いに受けているがゆえに、幸いなのです。だから互いに弱さを告白して、互いに憐れんでもらってよいのです。人のお世話になってよいのです。皆がイエス様に愛され憐れみを受けているから、やさしくなれるのです。教会員同士、頼り頼られる関係になれるのです。互いに憐れみを受け合うようにしましょう。
(2024年11月10日 主日礼拝説教要旨)