祈りのうちにおかれて

《 マルコによる福音書 14章32~42節 》
 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 今日は平和聖日礼拝です。紛争が世界で頻発していますが、ウクライナにおいては、ロシアによる核兵器はいまだ使われておりません。核兵器使用に踏み切れない理由は、一つには、世界に広がる核兵器廃絶運動があり、もう一つには、広島と長崎の被爆の実相と証言が、地道に世界に向かって発信されているからです。このように、平和の実現には地道な努力が必要です。主にある平和と合わせて考える必要があります。
 今日の聖書は、ゲツセマネの祈りです。イエス様が十字架の苦しみを吐露している場面です。なぜ、神様は人間に最初から聖霊をお与えにならなかったのでしょうか。最初から聖霊をいただいていれば、人間的にも、社会的にも、混乱がなかったのではないかと考えることはありませんか。しかしこの考えは、弟子たちと同じように、力の支配を根底にもっています。聖霊によりすべてを決着しようとするもので、人間が罪を悔い、方向転換して神様に向かうような、悔い改めの信仰とはなっていません。すべて人間が、自分で思い描いたような道を、聖霊に頼るものになってしまいます。
 聖霊降臨の出来事は、イエス様の苦しみの後、十字架、復活を経てから起こっています。そこに、人間に真の救いを与えてくださる神様のご配慮があるのです。弟子たちがイエス様の地上での苦しみを思い、自らの苦しみを経て、信仰を貫き通せるようにしてくださったのです。聖霊が降るときは、祈っている時でした。十字架と復活と逃避を経験して、祈っている時でした。聖霊降臨により、十字架と復活を通して、弟子自身が悔恨して罪に気付き、謙(へりくだ)る信仰へと導かれたのです。その際の大切な祈りについて考えてみましょう。
 祈りは、いろいろな場面で行われます。教会で祈る、ふだん家族の中で祈る、一人で祈る、などの時がありますが、信仰の友と祈ることは大変すばらしいことです。元気が出てきます。また深い祈りによって、神様と対話することができます。私の前任地は、千葉市のように市民クリスマスがありました。音楽ゲストを呼ぶことが多く、コロナ前まで続いていて、45年以上の歴史があったと思います。福音派18教会、教団2教会が協力して行っていました。準備は年に数回で、準備委員会を開き、互いに祈りあい、善き時が備えられクリスマスを迎えていました。他者の祈りを聞くと、人が神様に話しかけ身近に感じていることや、神様を頼りにして祈ることを感じることができます。神様の前で祈るのは、神様の前に立派である必要もなく、考えていることをそのまま語りかければよいのです。共に祈りのうちに置かれていると、とても力づけられるのです。神様は私たちのことをすべてご存じです。だとしたら、肩ひじを張ることなく、ありのままにお話するのがよいのではないでしょうか。そのように考え、祈り、神様と共にあるならば、この世の恐れが消えてきます。
 また、私たちはイエス様に祈られています。イエス様の祈りといえば、主の祈りがすぐに思い浮かんでまいります。ところが今日の聖書では、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われたあとに「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去る」ことを祈っているのです。イエス様が逮捕される直前の緊迫感が伝わってくるとともに、まさかイエス様がこんな祈りをすると思わないでしょう。いつも堂々としているイエス様が、急に弱気になったように感じます。イエス様の悲しみは、弟子が十分にイエス様を理解していないこと、ユダやペトロをはじめすべての弟子が裏切ることを知っていたからでしょう。通常、信頼関係にある者どうしであれば、裏切られたならショックで立ち直るまで相当の時間がかかるでしょう。しかしイエス様は、裏切りが、人間の弱さ・信頼の不確かさの反映であることをよくご存じなのです。だから悲しいのです。人として育てている弟子たちが、いま信仰の成長の過程にありながら、裏切ることが悲しいのです。いかに弟子たちを思っていたかがわかります。弟子たちが、イエス様を全面的に信頼するのは、まだまだ先です。だから完全なものが、弱い弟子たちのために十字架につかなければならない、その苦しみに与かることを、できれば避けたい気持ちもあったでしょう。そこで「苦しみの時が自分から過ぎ去る」ことを願うのです。
 イエス様がご自分のために祈っている姿は、どうなんだろうと思いませんか。神様に対して、自分の願いをご利益的に聞いてもらおうとするのはおかしいという考えがありますが、この祈りは、私たち自身がする祈りに近いものがあります。そういう意味では、実に安心感がある祈りです。この祈りは、自らの弱さを表わしているものです。イエス様は、人間の弱さまでも降っておられるのです。
 私たちの神様は、私どもの地上の生涯をお決めになっている方であります。私どもを、地上で必要とされる間、お用い下さる方であります。神様は、地上の働きをなさっていたイエス様を十字架にお付けになろうとしています。そして、イエス様は神様に用いられるために、十字架にお付きになろうとしているのです。しかしゲツセマネの園では、まず自分の命のことで祈る人間の姿が書かれております。イエス様は私たちと同じく苦しみもだえて、この世の人生を生き抜かれたのです。そのお姿は、私たちが楽しいこと苦しいことに一喜一憂し、何とか生き抜こうとする姿なのです。
 イエス様の苦しみは、肉体的苦痛を受け十字架につけられる苦しみのほかに、誰が殺すのかということに対する苦しみでもあります。みんな、自分でイエス様に手にかけることをしませんでした。まず、祭司長達がイエス様を妬んでいるのを知ったユダが、イエス様を祭司長達に売り渡しました。祭司長達は、自分で手にかけずに、イエス様をポンテオピラトに引き渡しました。そして最終的には、祭司長達に扇動された群集の指示で、ポンテオピラトがイエス様の命を奪うことになるのです。誰もが自分で手を下さない、責任は自分にはないという形を作って、イエス様に手をかけます。しかしそれが神様の御心でした。捕らえられて十字架につけられることは、神様の御心であったのです。だからその御心の背後には、自分を捕らえるものや処刑する者をも思いの中に入れた祈りがあったのです。ゲツセマネの祈りは、このようなものの罪深さを引き受け、すべてを受け入れた祈りなのです。イエス様は人間の罪深さを覚えて、それを引き受けてくださったのです。このイエス様の祈りは、今も生きています。私たちをも祈ってくださっていたのです。祈られることはすばらしいことです。心が豊かにされます。すなわち祈りは心に届くのです。本来ならば、多くの罪が暴かれて断罪されるはずの人間が、祈り祈られることによって、人を引き受ける働きをする存在へと変えられるのです。そしてこの祈りはいつまでも残っていくものなのです。私も、いかに多くの方々から祈られていたかを感じます。召命を受けて白河教会から神学校に出る時に、教会員に祈られておりました。積極的に支えていただきました。双子の幼児がいる家族を白河に残し、単身東京の神学校に出ましたから、とにかく家族は祈られ支えられました。祈られていることは力になります。
 一方イエス様といっしょに行動していた弟子はどうであったのか。「心は燃えていても、肉体は弱い」と言われるように、イエス様が祈っておられる間、疲れて眠ってしまっていました。弟子は、イエス様がメシアとして苦難を受けることを、受け入れていなかったのでしょう。イエス様は、苦難を通して救いは成就していくことを知っていました。英雄的メシアでないことは再三話してきました。
 イエス様は、ご自身や弟子に起ろうとしていることのために、目を覚ましていなさいと言われています。しかし弟子は眠ってしまいました。イエス様は「シモン」と声を掛けます。このシモンという名は古い名です。肉のうちに置かれていたときの名前です。新しい信仰に生きようとしても、古い肉に頼った信仰が目を覚ましてしまいます。新しい名はペトロです。岩のような固い信仰を表しています。しかし、「今夜鶏が2度なく前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」という切羽詰った状況であったにもかかわらず、弟子に深刻さは伝わらず眠ってしまったのです。
 いまイエス様は、神様のなされることはわかっている、それゆえ弱りきっているのですが、その弱くなっている私を助けてほしいとする思いではなく、神様の御心に適うことが行なわれるようにと願います。すなわちイエス様は、十字架に付くことが神様の御心であれば、その通りになりますようにと祈ります。神様の命令は、イエス様が生きて、病人をいやし、悪霊を追い払うことをこれからも行いなさい、ということではなかったのです。罪のないイエス様が、人間の罪を引き受けるということでした。ゲツセマネの祈りはそういう祈りであります。イエス様が祈られたこと、そしてこの祈りによりイエス様が私たちを覚えてくださっていることを知ります。イエス様は、人間の弱さというありのままの姿を示されました。弱くても、神様の御心のままに従う私たちを、神様は受け止めてくださるからです。神様に受け止められていることに気付くならば、弱さはただの弱さではなくなるのです。 

(2024年8月4日 平和聖日礼拝説教要旨)