光に向かって

《 マタイによる福音書 4章12~17節 》
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 私たちは教会で伝道活動を行っております。10月14日に行われるオープンチャーチも、伝道活動の一環として行われます。私たち自身は神様に導かれて礼拝に集い、いつか洗礼を受け信仰を得て、信仰生活を送っています。私たちが教会に通うときには困難を抱えていたので、教会に期待するものがあったと思います。そういう時に信仰を得て、神様に向かって歩みだす、それまでは暗闇を歩んでいましたが、神様の光に向かって進み出した信仰生活であったと思います。洗礼を受けて徐々に信仰の喜びを得ていきます。人生の方向転換が起こったのです。最初は信仰が不確かなものでも、何度も教会に来ている間に信仰が確かなものになり、目指すところが明確になりました。教会に集って礼拝することが、人生の中心になったのです。私たちの人生そのものとなったのです。この世の悪を捨て、悔い改めて福音を信じ、信仰を形成してきました。罪が贖われ赦されて生きることのすばらしさを実感しました。主日の礼拝ごとに、そのことを味わい、よき交わりを通して恵みの豊かさを感じました。さらに、人々に仕え奉仕し信仰生活が確立してきました。
 イエス様は自分が洗礼を授けてもらった、バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞き、自分は一旦ガリラヤへ退きました。ヨハネが捕らわれた理由は、当時の領主ヘロデ・アンテパスが妻と離婚して、兄弟フィリポの妻ヘロデイアと結婚をしたために、ヨハネがヘロデを非難したからです。そのためにヘロデの逆鱗に触れて捕らえられ、マケルス城内の土牢に幽閉されたのです。ヘロデの末期、ついに処刑され、ヨハネは殉教の死を遂げるのです。イエス様は身の危険を感じて、ガリラヤに一旦待避したというような印象を受けますが、そうではありません。生まれ故郷ナザレも宣教の地カファルナウムもヘロデ・アンテパスの領地でしたから、特に安全地帯であったわけではありません。ヨハネの活動が終わったので、別の場所に移ったということです。そこから新たなスタートをしようとしたのです。ヨハネの弟子がいたでしょうから、通常なら、彼らと一緒に活動してもよいと考えますが、そうされませんでした。一旦退いて新たに弟子を集めてスタートします。これは、イエス様と違う考えを持つヨハネの弟子と一緒に活動することはできなかったからです。違う考えを持っている人を、正しい方向へ導くことはかなり難しいのです。だからイエス様は、新しく弟子を集めて一から教えて育てようとしたのでしょう。
 イエス様は宣教を開始するにあたり、効果があがる良い場所と良いタイミングを望んでいたのです。イエス様は、今が伝道の時と定めて勇んで出かけていきました。場所はナザレではありません。ナザレはイエス様が生まれ、成長された懐かしい故郷です。知人、友人がたくさんいて、宣教が人から人へと効果的に行われそうです。しかし、そのことの故に、宣教の第一声をあげる場所としては断念しました。人間的な前提を無にすることによって、神様の前に立つことを大前提にしたのでした。何もないところから始めようとされたのです。それは開拓伝道と同じで、神様によって立ち上がっていくのです。根拠となるものがあるからではなく、何もない状態で神様を信頼して立ち上がっていくのです。伝道の拠点は、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムでした。カファルナウムはガリラヤ湖畔にあって、多くの住民は漁業に従事し実り豊かな町でした。ここにはローマ軍の駐屯地もあり、経済的にも政治的・軍事的にも重要な町でした。カファルナウムのあるガリラヤは、紀元前733年、アッシリア王テグラテ・ピレセル3世によって占領されてから、「異邦人のガリラヤ」と言われて、ユダヤ人に蔑まれていました。ユダヤ人にとって異邦人と呼ばれるほど侮蔑の言葉はありません。
 ところがイザヤは「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。」(イザヤ9:5)と言います。打ちひしがれて嘆きと苦しみの地であるガリラヤは光栄を受ける、闇と死の陰の地に住む人々の上に光が輝くと述べているのです。この光は太陽の光ではありません。太陽の光でその土地が豊饒になるということではありません。神様の光がそこに差し込んだのです。
 このことは、困難さを抱えている人たちに、いのちの光が授けられることを意味しています。イエス・キリストが光となって現れ、闇に埋もれた私たちの心を照らしてくださるのです。押しつぶされそうになっている人の所に、光が現れるのです。イエス・キリストこそ真の光であることを証ししています。イエス様は、異邦人のガリラヤと呼ばれたところに来られることによって、この世の暗闇を照らし、人々を死の陰から救い出し、命の光に導く方としてこの世に来てくださったのです。イエス様がおられるところに光があります。教会は、この光をまっすぐに見上げることによって立ち、生きるものとされます。
 私たちの心は、神様以外の何者かにとらわれます。そうなると、光に向かおうとしても向かうことができません。闇にうずもれてしまうことになります。これがイエス様が受けられた誘惑であります。私たちもまったく同じ誘惑に駆られるのです。その中に閉じ込められてしまいます。イエス様を信じるとは、この闇から光への転換です。このような暗闇に住む人々や死の陰の地に住む人々を照らして下さる方、希望の光を与えて下さる方がイエス・キリストです。イエス・キリストはすべての人を照らします。イエス・キリストがおられるところが光であり、おられないところは闇なのです。
 私たちは光であるイエス様を信じ、イエス様に従うことによってのみ、光を持つことができます。イエス様に従わなければ、私たちは闇の中で生きるほかはないのです。闇の中で生きるということは、神様の恵みによってではなく、自分の欲望によって生きることです。欲望という主人に支配されている奴隷のような生き方です。善悪を判断する能力を失い、感謝することも喜ぶこともない人生へと転落してしまうのです。深い闇に包まれてしまっている人生ほど、恐ろしいものはありません。
 イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、宣べ伝え始められました。イエス様は、暗闇の人生を歩んでいる人々に向かって、「悔い改めよ」と呼びかけられたのです。それは心を入れ換えて神様に立ち帰ることです。人生の方向を神様に向かって転換するのです。闇ではなく光の方向に向きを変えるのです。このままでは人間は滅びるほかはない。イエス様は悔い改めを通して、暗闇から光に、死から豊かな命に入ることができると言われます。天の国がそこまで来ています。イエス様の愛の招きに応えていきたいと思います。

(2024年10月6日 主日礼拝説教要旨)