《 ヨハネの手紙一 第1章1~10節 》
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。神と交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、私たちは偽りを述べているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません。
ヨハネの手紙を書いたのは、イエス様の弟子であるヨハネかあるいはヨハネ共同体のグループの指導者ですが、ここではヨハネと呼びます。ヨハネの手紙はヨハネと交わりのある教会に送られました。その教会に連なるキリスト者に向けて書かれたものです。
第一に言われていることは、信仰を持つあなたがたキリスト者は、すでに「永遠の命」を持っているということです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音書17:3)永遠の命とは、神とイエス・キリストを知ってその愛の中に入ることで、それは死んだ後に起こることではなく、今起こっているのです。ヨハネは、救われていることが曖昧で不安な人達に対して、神の子の御名を信じるあなたがたは、確かに永遠のいのちに与かっていると言っているのです。ヨハネ福音書では「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ福音書20:31)とあり、信仰を持ったあなたがたは、命を得て確実に救われているとクリスチャンを励ましたのです。
スコットランドの新約学者で牧師のウィリアム・バークレーは、「永遠の命」の本質は、落ち度なく戒律、規則、規定を守ることではなく、隣人に対する愛の態度と自己を犠牲にする寛容さにあると言っています。
その隣人愛の一例として、エイブラハム・リンカーンの母の遺言について、考えたいと思います。アメリカの第16代大統領となったリンカーン(1809年~1865年)が、幼い時のことでした。彼の家は貧しく、小さな丸太小屋に住み、服は着たきりのシカ皮の下着のまま、ワラ布団に寝ころがるような生活をしていました。けれども母のナンシーは、そんな貧しさに負けないで、人間にとって一番必要なものは物質ではないということを、まだ幼い二人の姉弟に教えてきました。リンカーンが10才の時、愛する母はマラリヤにかかってしまいました。彼女は、いよいよ神様の御元に召される時が来たことを悟った時、枕元にリンカーンと姉とを招きました。病いで痩せ衰えた手で、リンカーンの手をとり、頭をなでながら、信仰深い母は言いました。「おまえがこれから最も大切にし、実行してもらいたいことがあります。これは、聖書の教えですが、お母さんの願いでもあります。神様を信じなさい。そして正直に生きなさい。お父さんを助け、姉さんと仲よくし、隣人を愛しなさい」これを遺言として、母の魂は彼女の信じるイエス様の御許に召されて行きました。1818年10月5日、母35才、姉のサラ12才の時のことでした。リンカーンは大統領になってから、隣人愛を実践し、奴隷解放を行いました。聖書はリンカーンの確かな読み物になり、語る言葉の基礎となっていきました。リンカーンは大統領就任式の時、宣誓に用いたのは、母から受け継いだ古い聖書でした。(実際は代用品)このリンカーンバイブルは、オバマ大統領やバイデン大統領の就任式でも使用されました。オバマ大統領の就任式の時は、偉大な解放者であるリンカーンの志しを継ぐという意味を込めて、この聖書で宣誓式が行われました。リンカーの意志は見事に花開き、人種差別は少しずつ解放されていきました。オバマ大統領の就任式には、白人と黒人が混合のブルックリン・タバナクル・クワイアが合唱を行いました。象徴的な出来事でした。隣人愛が目に見える形で進んでいきました。リンカーの母の遺言である聖書の御言葉が実を結びました。永遠の命の本質である、隣人に対する愛が表れています。このクワイアの曲「Worthy
Is The Lamb」を勝田台教会の40周年のビデオを制作したときにBGMとして使用しました。
ヨハネの手紙で、第二に言われていることは、交わりの大切さです。3節に、「私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」とあり、ヨハネの手紙の読者が、神と御子イエスとの交わりに与かることを願っています。その交わりとは、どのようなことでしょうか。神は三位一体の神で、神が天地を創造なさる前から、父なる神と子なる神、聖霊なる神は、愛の交わりをもっておられました。神の本質はこの愛の交わりにあるのです。その交わりの中に私たちが与るために、この手紙を書いたとヨハネは言います。通常三位一体の神の交わりの中には人間は入ることができません。しかし、イエス・キリストが地上に遣わされ十字架にかかり人間の罪が赦されたことで、私たちは神と交わることができるようになりました。私たちが救われたということは、神との愛の交わりに入れられたということです。
神との交わりを可能にするのは、私たちが光の中を歩むことによります。それは神が光の中におられるから、そこを歩むようになるなら、交わりを持つようになるのです(7節)。神の招きに従って光の中を歩むと、私たちの心の内にある隠れた罪は闇に隠れていることができず、照らし出されます。人間はアダムの罪の性質を受け継いでいますから、心の中に罪が入りやすくなっているのであります。しかし、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められるのです(7節)。血の中に人の命があり、血は贖いをすることができるのでキリストは十字架にかかって血潮を流され、血が一人一人に与えられました。イエス・キリストの血は私たちの罪をずっと清め続けてくれるのです。そして、私たちが罪を告白するなら、神は真実で正しいかたであるから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めて下さいます。そこで私たちは罪の汚れに染まった者であると認識し、告白することです。マルティン・ルターは「私は赦された罪人である」と言いました。そのように私たちの真実な姿とは、罪を認めることなのであります。そして告白して神の御前に出るときに、私たちを認めてくださいます。その結果、イエス様の血がすべての罪から私たちを清めてくださるのです。
神との交わりを可能にするのは、罪を告白し、御子イエスの血により、すべての罪から私たちを清められ、光の中を歩むことによってなされていくのです。そのことにより、この地上で、永遠の命を生きる幸いを味わうことができるのです。藤木正三牧師はその随想の中で、罪とその告白について次のように言っています。「人の罪だけ見ている時は、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして、自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして、神の前に立っています。その際自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えてる間は、まだ神の前に立っていないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから」他者の罪と自分の罪は同等で、やがて、自分の罪が大きく見えるようになるのです。エイブラハム・リンカーン(1809-65)は南北戦争に勝って1864年第二回大統領に就任する時、その演説の中で「北部にも南部にも、この度のおそるべき戦は我らの罪の報いであることを悟らなければならない」と述べました。彼は奴隷制度が罪悪であると主張して、その廃止のために北軍をひきいて南軍と戦ったものです。それなのに、その罪を敵だけに負わせないで、北部にも南部にも我らの罪であることを知らねばならないと言いました。罪を曖昧にせず告白しました。
私たちが永遠の命を得て、光の中を歩むとは、自分の罪の大きさを感じ、神の前に罪の告白をして、赦されて生き、隣人愛に自分を捧げることなのです。
(2026年1月1日 元旦礼拝 説教要旨)