《 マルコによる福音書 11章1~11節 》
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
ある牧師夫妻が開拓伝道を始めようと、礼拝する場所を用意して祈って待っていたそうです。主日ごとに夫婦で礼拝を持ち、誰かが訪れて来て、共に礼拝をすることを願っていました。しばらく続け、毎回夫婦で礼拝を捧げておりましたが、誰も来ませんでした。牧師はいつも誰も来ないので、「2人だけの礼拝だね」とお連れ合いに言ったそうです。そうしましたら、お連れ合いは「2人じゃない。父子聖霊の3人のお方が、いつも礼拝で一緒におられる」と返答したそうであります。「だから、いつも5人で礼拝しているのですよ」と言ったのだそうです。そこでまたしばらく、礼拝をしておりましたが、誰も来ませんでした。さすがに2人は、このままでは誰も来ないと予想して、開拓伝道を終わりにしようと思いました。ところが、その次の主日に、一人の若い男性が来たそうです。神様が応えてくださったのです。その後、この男性は牧師になったそうです。性急に求めてもなかなか聞かれませんが、神様への祈りは届くのです。
勝田台教会は今年度、創立40周年を迎えました。教会は40年前、近隣にチラシを配り、初めて開拓伝道の礼拝を捧げた時、かなりの人数の方が参加したと聞きました。「主がお入り用なのです」と言われれば、子ロバを差し出すのと同じように、たくさんの方々を主は必要とされ、皆様が応えていきました。その後、会堂、教会墓地、駐車場が与えられ、主の御用に応えていきました。主の御用のために、持っているものを差し出すことができれば、なんと幸いなことでしょう。自らを捧げきることができれば幸いです。当時も、主がお入り用なのですと言えば差し出したことからわかるように、イエス様を慕う人がたくさんいたのです。その人々によって、イエス様や弟子達の活動は続けられたのです。私たちも、主がお入り用なのですといわれれば、喜んで私たちの持っているものを差し出したいと願います。
しかし、そういう関係をもつことができなかったらどうでしょうか。「主がお入り用なのです」と言われたとき、私は何の関係もないと思ったらどうでしょうか。たとえば、この子ロバは我が家の家畜でいつも使っている、誰にも譲ることも貸すこともできない大切なロバだと思ったらどうでしょうか。見ず知らずの人に、大事なロバを与えることはないと言うのではないでしょうか。大体、子ロバを売るとしたら値段がいくらになると思うんだと、すぐに金銭的感覚が先行するかもしれません。これはイエス様が必要とされることを第一に考えているのでなく、別の考えが支配していると言わざるを得ません。主とは誰のことだ、私は知らない。何のために差し出すのか。どうしても差し出さなければならないのか。このような関係であるなら、不幸な関係と言わざるを得ません。主が必要とする関係とは反対の関係、自分の必要なものが優先する考えです。自分が必要なものなので、主が必要だからといって差し出すことはできないと言うでしょう。
そうではないのです。イエス様が必要とする子ロバが、何に使われるかは問題ではないのです。主が必要だと求めているものを、即座に差し出し喜んで使っていただくなら、大変美しい関係であると思います。主に差し出すものはなんでしょうか。それは私たち自身です。私たち自身を、主はお入り用なのです。私たち自身の体と働き、私たちの持っているものすべてがお入り用なのです。いつも差し出す気持ちを持っていれば、すぐに差し出すことができるでしょう。それは神様の働きのために、心から自分自身を差し出すことです。
しかし、これは大変難しいことです。子ロバに乗ってエルサレムに入場したイエス様を、多くの人々は自分の服を敷いて、熱狂的にお迎えしました。しかし、その後のイエス様の十字架の場面では、自分たちの望んだ救い主ではなかったと否認してしまうのです。イエス様の道は十字架へと向かう道で、捕われて裁判にかけられ、最後に死んでしまうのですが、そのような救い主を人々は気にくわなかったのです。服を脱いで差出しどうぞおいでくださいと言った人々が、十字架で死ぬことは自分たちが描く救い主像にはあわないから、一斉にイエス様に非難を浴びせたのです。
熱狂した人々がどうして、イエス様を裏切ってしまったのか。それは、自分たちを差し出すのでなく、自分たちを守るための救い主であってほしかったからです。地上の宝、お金、地位、商売など、固執する宝があったのです。だからイエス様が十字架で死ぬことは、ありえないことになってしまうのです。宝を守るためには、あらゆる理由がつけられます。私たちもそのような宝を持っていますから、振り返ってよく考えてみなければなりません。その宝を守るために、神様の御用をできないこともあるのではないでしょうか。そして私たちは、そのことに既に気がついています。私たちは宝を守ろうとしながらも、本当は、神様に向かわなければならないことを知っていて、常々、葛藤しているのではないでしょうか。ちょうど、富める青年が持ち物を貧しい人に施しなさいと言われて、自分の宝を捨てられなかったことを学んだようにです。
神様は、私たちが欲望に欲望を重ねて宝を死守するようには勧めていません。欲望のためにイエス様を用いることは望んでおられません。とにかく、私たちは主の御用をするべく教会に集められたものであります。教会に集まっている人はみな、主に必要とされている人なのです。だからいつでも喜んで、主のご用のために役立ちたいと準備をしておきたいものです。
私が以前勤めていたキリスト教の施設では、いろいろなものが捧げられました。大人の作業訓練を行なう授産施設で、花台などの木を磨く木工作業や、米づくり、なし栽培などを行い、毎年多くの収穫がありました。施設が新たに建設されることを知った一人の農家の方が、水田となし畑を提供してくれました。そのうえ、栽培についても教えてくれました。捧げることの喜びと、園生と共に生きる喜びを味わっているのです。自分の持っているものと心が、主の御用に生かされることは嬉しいことです。そのように自分自身を、主のお入り用に捧げていきたいと願います。
私たちにとって教会こそが、色々ものに縛られずに、自由に主の御用をできるところです。この世に出て行くときの力となるところであります。エルサレムに入場するにあたって、イエス様がお入り用であったのは、王様のようにまたがる軍馬ではありませんでした。教会でもそうです。王様を乗せる馬は、教会にも必要はありません。誰も乗せたことのない子ロバ、小さな子ロバこそ、イエス様が必要とされているものです。捧げるものは立派なもの、役に立つものとは限りません。戦闘においては役に立たない子ロバこそ、イエス様が必要とされています。
私たちが神様の御用をなし、神様のものとなる生涯は平坦ではありません。神様に用いられながら、逆境を進むことが多いでしょう。私たちの生涯は、十字架への道を倣う生涯です。十字架を避けることをせず、選び取っていくことができたら、逆境の中でも平安を得るのです。真の平安を得ないならば、いつも心は悶々とし自信に欠けてきます。逆境やタブーを恐れていては、平安は訪れません。真の平和、信仰における平和に向かって歩みだすべきです。逆境にあっても、柔和で謙遜なイエス様の足跡を歩んでいきましょう。イエス様は、鞭打たれても黙する柔和なお方でした。自らの十字架を負って、イエス様に従う途上にある時に、この世では味わえない平安を得るのです。
王の軍馬ではなく、誰も乗ったことのない、ヨタヨタ歩く子ロバこそが私たちの姿を現しています。十字架に向かうイエス様を乗せて初めて歩き出し、ヨタヨタしながらもやがて慣れて、イエス様と共に歩みを進めることができるようになるのです。その道程で私たちは、信仰によって造り変えられる体験をします。主に従う道は自己変革の道です。十字架への道は、主の御入り用のため自分を差し出す道で、やがて自らの十字架を背負うことができる学びの道でもあります。すなわち力による救い主を拝むのではなく、また多くの人が惑わされているように、主の愛の十字架を引き抜いて振り回すような力の道を進むのではなく、イエス様と同様に神様の愛に信頼して、黙々と従っていきたいと願います。
(2024年4月7日 主日礼拝説教要旨)