イエス様の愛の深さ

《 マルコによる福音書 7章24~30節 》
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 鴨井玲という画家がおります。1928年2月3日に石川県金沢市で生まれました。主に人間や社会の闇を描いています。鴨居の絵は非常に強烈なものばかりであり、絵を見た者は一瞬で鴨居にとらえられます。晩年の鴨居は、自画像を多く制作していました。作品は万人に好かれるような作品ではなく、ただ暗く強烈な印象を与えるものです。
 1992年、私が神学校に入る半年前でした。鴨井玲の「教会」という作品を知り、どうしても実物が見たくなり、当時福島県白河市に住んでいましたが、家族6人で軽自動車に乗って2泊3日の金沢への旅に出ました。会津から只見、十日町、富山市を抜けて金沢に入りました。作品が展示されている石川県立美術館に向かいました。私が気になった「教会」という作品は、コンクリートでできた巨大な教会が、宙に浮いているというものです。十字架の形をした巨大な教会が地上から浮き上がって、地面に十字架の建物の黒い影が映っていました。明らかに地に足がついていないことを表しています。黒い十字架の影が映った地表と、教会の間にある空間をよく見て考えなければならないことを示しています。とても印象深い作品でした。
 このことから、今日のテキストを解釈してみるなら、「女性の機転を利かせた言葉がイエス様を動かし、汚れた霊につかれた子どもを救ったのだ」という一般的な解釈では、全く解釈が浮き上がっている、地に足がついていないと言わざるを得ません。この女性の機転ではなく、女性の信仰を見なければなりません。
 これらの癒しは異邦人の地で起こった出来事です。ティルスは異邦人の町で、ガリラヤ湖の北西に位置し、フェニキア地方の地中海に面した古い大きな町です。ガリラヤ湖の北から直線距離で約60キロの距離です。イエス様一行は直線距離で歩いたわけではなく、おそらくカナンを経て地中海に出て、舟でティルスに行ったのではないかと思います。100キロ以上はたぶんあるでしょう。あるいは、山沿いを人に見られないように移動したのかもしれません。ガリラヤの周辺で活動しておられたイエス様にしては、とても遠くへ、思い切った旅に出たことになります。
 何のために、そんなに遠くに行ったのでしょうか。イエス様は恐らく、ガリラヤ周辺にいては休めないと判断したのです。群衆を避けて静かに休養するため遠くへ、ティルスの町に逃がれました。それまでイエス様は安息日すら休むことをせず、会堂で教え病人をいやされました。病人をいやし助けることが神の御心に叶ったことであると、イエス様は考えておられました。弟子たちも働き詰めでした。以前にイエス様は、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と弟子たちに言われました。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからです。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行きました。ところが多くの人々は、彼らが出かけて行くのを見てそれと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いたのです。イエス様は舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみました。
 なので今回は、群衆に気づかれないように、真夜中にそっと出て行ったことでしょう。ところが、ティルスまで来たらだれにも気づかれずに休めると思っていたところ、人々はイエス様や弟子たちが来たことに気づき、すぐに評判が町中に広まってしまいました。実はティルスの人々は、イエス様のことを知っていたのです。イエス様のもとへ、ガリラヤから、あるいはまたユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が集まってきたのです。ティルスからも、イエス様の評判を聞いて人々がたくさん集まってきました。
 ティルスの地方は、ユダヤに対して敵対関係にありました。イエス様は誰にも知られないように家の中におられましたが、隠れていることができませんでした。隠れていたイエス様の所に、一人の女性がやってきました。汚れた霊に取り付かれた娘を救うことを、イエス様に願い出ております。イスラエルの女性でなく、異邦の女性ギリシャ人で、異邦の宗教に属していました。すぐに聞きつけてやってきたとある通り、悪霊につかれて狂乱する幼い娘を抱えて、女性は苦悩の日々を過ごしていました。女性は汚れた霊に取り付かれた娘をかかえ、ガリラヤのイエス様のもとへ行く余裕はなかったのです。しかし、イエス様のそばに言って見聞きしたティルスの人達から、奇跡やいやしや教えとその評判については聞いていたのです。
 この女性の苦しみについて考えてみましょう。自分では癒す力もなく、途方に暮れていました。また近所とのかかわりもありますが、汚れた霊につかれていると見られていましたから、同情というよりは毛嫌いされるような関係であったでしょう。汚れた霊につかれた子との関係は、ただ病がこの子に訪れているだけでなく、とても苦しい親子関係であったことでしょう。さらに、人間だれでもそうですが、この女性自身が罪の苦しみを抱えているのです。根本的な罪を犯しあうような人間関係の中で、女性が娘の面倒を見ています。たいへん苦しかったことでしょう。
 アダムとエバが罪を犯すところを思い出してください。主なる神様はアダムに対し、善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令しました。ところが蛇が女に近付き、木の実を食べるようそそのかします。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めました。実を食べた2人は目が開けて、自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆いました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と神様に問われたアダムは答えました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。主なる神は女に向かって言われました。「何ということをしたのか」。女は答えました。「蛇がだましたので、食べてしまいました」。このように、欲望にまけ、蛇にそそのかされて罪を犯した女が、男をそそのかし、男も罪を犯し、責任は互いに自分ではないと言い張ります。この罪を犯した者の現実を、人間は生きているのです。だから互いに苦しみます。異邦人の女性は自分の罪の苦しみの上に、わが子が汚れた霊に取りつかれていることを苦しんでいるのです。罪にある人間が何重にも苦しむのが現実です。そのような女性が、今イエス様の前にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んでいます。この家族は、病の娘を中心にして成り立っています。
 しかし、イエス様は悪霊を追い出して下さいとの女性の願いを拒否されます。マタイ福音書では、異邦人蔑視のニュアンスが含まれているのでしょうか。とにかくユダヤ人が上なんだという発想があります。しかしイエス様は、「まず子どもたちにパンを与えなければならない。子どもからパンを取り上げて、小犬に与えるのは良くない」と言われました。「偶像の奉仕者と共に食事をする者は、犬と食事を共にする」という言葉があるとおり、ユダヤ人は異邦人を犬と呼ぶことがありました。注目すべきは、ユダヤ人が犬と呼んでいるのに対して、イエス様は小犬と呼んでいることであります。これは野犬ではなく、飼い犬をさしています。そして小犬、すなわち飼い犬は、家の外にではなく、同じ家の中に子どもと一緒にいるという事をイエス様が言われたことが大事なのであります。たしかにユダヤ人にとっては、イスラエルの子どもこそが神様の子どもであります。ですから、イスラエルの子ども達の父であるイエス様は、まず子ども達に必要な物を与えるのです。マルコ福音書では「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言い、この女性は異邦人ではあるのですが、差別するのではなく、ただ誰を優先させるかを問題にしているのです。つまり、「許せ、まず子どもたちに腹いっぱい食べさせるのを」というお願いなのです。「まず今必要なことは、私の子どもたちに心ゆくまでパンを食べさせること、そして休ませることだ。自分の子どもたちにまず与えるべきものを取り上げて、小犬に先に与えるのはどうかと思う」と言っているのです。
 同じ部屋にいる子どもと子犬の関係について言われた言葉に、女性はしがみついて、「主よ、おことば通りです。でも食卓の下にいる小犬も、子ども達のパンくずはいただきます」と答えるのです。女性はイエス様の拒絶の言葉を取り上げて、その拒絶の権利を承認し、お言葉通りですと言っています。ここに異邦の女性の謙虚さが現れております。しかし、同時にイエス様に食い下がるのであります。女性は子どもと同様に、同じ家の中にいる小犬にも必要な物を与えて欲しいと願っています。飼い犬は、食卓の下にいて、落ちてくるパンくずを食べるのであって、子どもの分を取ってしまうのではない。それは飼い犬に与えられた正当な分け前であって、小犬の物なのであると機転を利かせます。
 ここで、5000人のパンの奇跡を思い出してください。イエス様がパンを与えるのは、飼い主のない羊たちが神様とのつながりを回復して、神様のもとで喜んで信仰生活を送れるようにするためのものでした。だからイエス様が女性に言っていることは、ご自分の働きは、単に苦しみの救いではなく、神様との関係回復と、そのことによる苦しみからの解放であるということなのです。真の生き方への導きと人間の解放を言っています。女性の苦しみを十分承知しています。しかしまず、イスラエルの民の信仰を回復させることを行っているのです。
 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。ここでイエス様は、女性の信仰の言葉を聞いたのです。パン屑をいただきますは、私は異邦人で、いま神様のパンに与かることはできないかもしれないが、パン屑に与かることができるのではありませんかと。すなわち、神様との関係において、パン屑をいただきたいとの表明です。女性は自分自身の罪の苦しみと、汚れた霊につかれた子どもの苦しみを抱え、異邦の女性でありながらも、イエス様の働きを聞いて、自分たちの救いをまず求めたのです。「それほどいうなら」とイエス様は言われます。女性自身が神様への信仰を言い表し、神様のもと、本人と娘の救いを願うのであればというのであります。
 この家族に救いがおとずれました。イエス様は、いやしをもたらす言葉は語っていません。女性に、「その言葉のゆえに、行け」と言われただけです。女性はどのようにしていやしが起こるかも問わないし、またいやしが確実に起こることも求めていません。ただ、イエス様の言葉が確実であると信じて家に帰りました。この女性は娘から悪霊を追放してもらいますが、ただ悪霊追放という救いが女性にとっての全てではありませんでした。異邦の女性が自らの罪の故に神様を求め、イエス様に従う信仰によって、自らをイエス様にゆだねて生きたのです。

(2023年12月31日 主日礼拝説教要旨)