《 使徒言行録 9章32~43節 》
ペトロはすべての教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、体が麻痺して八年前から床に着いていたアイネアと言う人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆、アイネアを見て、主に立ち帰った。ヤッファにタビタ…訳すとドルカス…と言う女の弟子がいた。数々の善い行いや施しをしていた人であった。ところが、その頃病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「どうか、私たちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、一緒に出かけた。ペトロが到着すると、人々は階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスと一緒に作った数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンと言う人の家に滞在した。
最近日本の各地でクマの出没がニュースで報告されており、たくさんの被害が出ています。ニュースでは、クマが家の中まで入って来るので注意が必要です。しかし千葉県ではクマが出ないと聞きました。都市開発や農地の開墾で森林が少なくなったからです。特に荒川と利根川に挟まれている千葉では、クマが生息していないと言われているので安心しています。先日、朝早く起きて二階の牧師館から下に降りて行って、教会の前の道に出ようと玄関の扉を開けたところ、一匹の動物に遭遇しました。人が一緒にいなかったので野良犬かと思ったのです。何かなと私が見つめると、動物も止まって振り返り、その瞬間、眼のまわりが真っ黒になっているのがわかりました。タヌキでした。ここにもタヌキが出るのだと思いました。タヌキは獣道よりはるかに広い舗装道路を闊歩しながら階段を降りていきました。なぜそれがタヌキと分かったかというと、振り向いたらもう一匹いたのです。小ぶりのしっぽが太いタヌキがいて、慌てて逃げていきました。階段を降りて行った先はヨークマート方面です。どこに行こうとしていたのでしょう。もしかすると、この道が以前は獣道だったのかもしれません。今は獣道より広く階段もきちんと測量して、コンクリートで仕上げて整備され、通行しやすくなったことをタヌキには理解できないでしょう。しかし、私たちは大自然の中で生きていますが、神様に造られたものであることを知っていますので、その点では幸せであります。自分が何者かを分からずに過ごしているのは大変であると思います。神様に造られて生かされている恵みを感謝できることは幸いです。人間には遠くに見える山一つ作ることができません。私たちはすべて神様によって造られたものです。人間が作ることができるのは、自動車のような加工品だけです。創造の業は、神様がすべてを司っているのです。その意味で、生死を神様が司っていることを深く思わされます。私たちは死に向かって歩んでいることを思い出すこともあります。そうすると、どこに行くのだろうとか、どのように死を迎えるのだろうとか、一種の恐れを持つと思います。人生が神様が司る死にむかって進むとき、恐れに飲み込まれてしまってよいのでしょうか。今日は召天者記念礼拝です。先に天に召された先達を覚えて礼拝を守っております。いかに人生において、死の恐れを乗り越えて信仰生活を送ってこられたかを考えたいと思います。人は若い時の方が、死を怖がります。やがて、年を取って何人もの死に出会い天に送ることで自分も同じであると感じ、人生はこのようなものだと思うようになります。
今日の聖書では二人の人が出てきます。一人は癒され、もう一人は生き返らされたという話です。ペトロは教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行きました。リダというのはギリシャ名です。旧約聖書ではロドと書いてあります。エルサレムからヨッパに向かう途中にあり、交通の要衝でユダヤ的要素の強い町でした。ペトロはサマリアをはじめとして各地を巡り歩きました。教会が点々とできてきたところを巡回しました。このペトロの巡回は、既に成立している信者たちの群れを訪ねるものでした。本日の聖書でも、リダに住んでいる聖なる者たちのところへ行ったのです。聖なる者たちとはキリストを信じた信者たちのことで、その教会に出向いていきました。次にはヤッファに行ったことが書かれています。ヤッファでは信者たちがペトロを招いたのです。ペトロが巡りながら何をしたかといえば、信者たちのところに行って力づけ励ましていました。信者は苦労しながら信仰生活を保っていますので、励ますことが大切です。それから、お互いに祈って信仰の喜びを共にしたのです。このように教会を訪問し、力づけ、励まし、共に祈ることを日本基督教団でも行っていて、これを問安と言います。まさしく安否を問うことで、教区ごとに行われています。教区では、教区三役の議長、副議長、書記が問安をします。教区の教会数にもよりますが、5~6年に1度は教会を訪問してくれます。その時には、牧師と信徒の方々がお迎えして、信仰の様子や教会の課題を話します。教区では教会に伝えるべきことや聞くべきことは準備してあります。教会では、問安を受けると心が穏やかになり、お互いに信仰者としての話ができるので、とてもよかったと感じます。ペトロが巡っているのは生まれたばかりの教会ですから、間違った教えに向かい脱落することがあるので、問安することは大切です。教会の信仰を確認し整え、信徒たちの信仰生活に励ましを与えます。生まれたばかりの教会には御言葉を教える教師がおらず、信徒の群れが出来てもそれを指導し導く人がいませんでした。そのような教会を導き、諸教会の間の信仰の一致のために、最初は使徒たちが巡回して訪問し、信仰の指導をしていたのです。この問安は、ペトロ個人の業ではなく、教会の働きであるということを意味しています。
そのようにペトロが巡回している時に、リダとヤッファという二つの町で、ペトロが奇跡を行なったことが語られています。リダでは8年間中風で床についていたアイネアという人を癒し、ヤッファではタビタという女性の信者が、死んでしまったのを生き返らせたのです。アイネアについては、中風で8年前から床についていたとあり、おそらく老人であろうと考えられます。病院や施設があるわけではないので、家族で世話をしたり、教会の人たちが見守っていたのでしょう。病を得て年を重ね、やがて死を向かえるだろうと予想されます。教会でもそのことは、お互いの課題として持つことができますが、教会の中でどのように考え働けるかが大切になります。病いと老いと死という、本人にとっての苦しみだけでなく、周囲の者たちにも苦しみや悲しみを与える深刻な問題を、生まれたばかりの教会もかかえていたのです。
ペトロはアイネアに「イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と声を掛けました。このような記事は聖書の何千年もの歴史の中でいくつかは書かれています。すると8年ごしの病いが癒されて起き上がったのです。ペトロの個人的な力が働いたのではなく、ペトロが教会の働きの中で問安したときにこのような癒しがなされたのです。教会が信仰において正しく指導され、整えられていくときに、このように素晴らしい出来事が起ることを知らされます。ペトロ個人の力によるのでも、教会の人々の力によるのでもありません。イエス・キリストが癒やしてくださったのです。あくまでも癒しをなさったのはイエス・キリストで、教会を通してなされるのです。あの人が働いた、この人が働いた、今回はペトロが働いたということがあったとしても、教会において救いのみ業が行なわれるのは個人の力ではなく、教会の主であるイエス・キリストが働いたのです。従ってイエス・キリストを中心に教会が信仰生活を送っていくなら、教会が神様に用いられて正しい方向へ行くのです。ペトロ自身もイエス・キリストが働いてくださると言って巡回しました。そして人間の病い、老い、死という問題をイエス・キリストを通して解決していったのです。
次のヤッファにおける出来事も同じです。この町にタビタという女性信者がいました。名前は「かもしか」という意味で活発な活動の様子が覗えます。生前彼女は善い行いや施しをして、貧しいやもめたちへ援助をしていました。39節に彼女の世話になったやもめたちが泣きながら、彼女が作ってくれた下着や上着を見せたとあります。タビタは、自分のできるささやかな針仕事の奉仕を地道にやってきた人でした。困窮した人々のために働いた信者でした。見栄えのよい奉仕ではなく、人目に触れない毎日積み重ねられた働きです。子どもを育てる時には手塩にかけて育てるのですが、タビタは自らの手を使って惜しみなく働き、困難を抱える人のために身を削って奉仕をしていました。活発にそして地道にやってこられた方が死んでしまって、普段の活発な交わりが失われ、教会とって意気消沈する出来事でした。この寂しさは普段の濃密な交わりから感じられることですから、彼女の死を勇ましい天国への凱旋であると括ってしまうと、地道な普段の交わりや奉仕が相対的に小さくなり、見えなくなってしまいます。いまタビタの死によって、交わりや奉仕を通じた心の通い合いが弱くなったのです。信仰者のよい働きや交わりの中で、誰かが死を迎えることは止めようのないことです。死の支配の方が強いのではないかと思ってしまいます。そのような親しい交わりをしたものは、死を受けて心も体も痛んできます。特に家族がなくなった時には痛むのですが、信仰における家族にとっても同じことが起こります。タビタの死は教会の平安を突き崩すような力の侵入でした。死の力の支配という現実に対して、教会はどのように立ち向うのかが大きな問いです。
通常なら亡くなった人の遺体はすぐに埋葬するのが習慣ではありましたが、ヤッファの教会の人々は遺体を洗い清めてから階上の部屋に安置し、近くのリダに来ている使徒ペトロを招きました。死の現実の中でイエス・キリストの救いを得たかったのです。ペトロが遺体の置かれている部屋で跪いて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き起き上がりました。死者の復活という奇跡が起ったのです。このこともペトロ個人の力によることではなく、アイネアの場合と同じように、イエス・キリストが働いてくださったのです。大切なことは、イエス・キリストが働いた結果、死の力によって意気消沈していた人々が救われ解放されることです。ペトロは、イエス様が働くための器として用いられました。ペトロは、自分を無にしてイエス様が働いてくださるように問安しているのです。イエス様の救いの業を知らせる人として立てられたペトロは、そこで聖霊の働きがなされることを知って用いられていました。ペトロは決して強いものではなく、いざとなれば逃げてきた欠けのある者であることを自覚しつつ用いられてきました。
聖書にはいくつかの「癒された、生き返らされた」という記事があるのですが、大切なのはその部分ではなくイエス様が働いてくださったというところです。なぜなら、一回死んだ人が生き返らされ、その人がまた死んで生き返らされたという繰り返しが尊いと聖書が言おうとしているのではありません。死の支配から私たちが解放されることが大切なのです。信仰生活を送るときに、いつまでも死の支配のもとにいて、恐怖に脅かされることはないのです。なぜかというと、私たち自身が罪を犯して、その罪の結果、死を迎えることを知っているからです。罪の力によって死を迎えることは恐怖なのです。様々な罪を犯して、償わない前に死を迎えることは、恐ろしいことであると誰もが感じています。年齢を重ねるごとに、そのことが心に迫ってきます。イエス様は、癒し生き返らせることによって死の支配をなくそうというのではなく、根本的な事柄である私たちの罪を贖うことで、私たち自身を死の支配と恐怖から逃れさせてくれるのです。罪による死の支配や恐怖から解放された人は、立ち上がってペトロと同じような働きをしていくのです。ペトロは立てられた人ですから巡回して使命を果たしますが、私たちは持ち場にあって、神様に喜ばれる業を行っていくのです。ペトロがそうだったように、自分を神様に明け渡して、イエス様が私たちに働いてくださるように願って信仰生活を送っていきたいと願います。
死を迎えて結局は負けたと思う必要はないのです。死が苦しいから、残されたものとの別れが悲しいからそのように思ってしまうこともあるでしょう。しかし、私たちは信仰者として一つなのだ、地上の歩みから天上まで同じ歩みを兄弟姉妹と共にしていることを強く思っていたいのです。病を得てやがて死ぬときまで、私たちはイエス様が十字架を通して贖ってくださったので、生き直すことができます。新しい命に生きていくことができるので死の支配から解放され、喜びに生きていけるのです。それは神様に従って行けば行くほどその思いは強くなってきます。私たちが神様に背いてきたという罪は、神様との関係において回復するのです。神様を正面に見て喜んで信仰生活を送ることができます。神様から創造され恵みを受け喜んで過ごすことができるのです。若い時から私たちは、死の前でどうしたら死の支配と罰を逃れられるか考えていました。イエス・キリストを信じる以外は逃れられないのです。いったん死を忘れたりすることはできますが、死の恐怖から逃れられません。死の力はそれほど強いのです。イエス・キリストの十字架と復活を信じて、死の力にすでに打ち勝っていることを信じて、新しく生かされていくことが大切です。私たちを取り巻き縛り付けているように見える病いや老いや死の現実と私たちの罪の現実は、イエス・キリストによる罪の赦しと神様の祝福の下に生きる新しい命によって変えられるのです。私たちはイエス様の十字架と復活によって既に死の力に勝利して、神様の恵みによって新しく生かされているのです。
(2025年11月2日 召天者記念礼拝 説教要旨)