生きる力が出てくる

《 マルコによる福音書 4章1~9節 》
 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(マルコ4:1-9)

 今日は平和聖日の礼拝です。2019年に第1回放送があった「マンゴーの樹の下で~こうして私は地獄を生きた」というドキュメンタリーを紹介します。これは私の恩師のお連れ合いが出ているものです。太平洋戦争中のフィリピンが舞台です。日本軍の道連れとなり密林をさ迷った日本人家族3千人の記録です。引き裂かれた母と子、兄弟姉妹の絆が描かれています。絶望を生き抜いた人々を描く証言ドキュメントです。
 戦時中のフィリピンには、移民や商社マンなど多くの日本人家族が暮らしていました。6000人以上の民間の日本人女性がいました。本土に比べむしろ安定した暮らしが営まれていましたが、占領した日本軍に対して1944年、米軍の猛攻が開始され、状況は一変しました。マニラ湾を出港する船はすべて撃沈され、帰国の途を閉ざされた彼女らは軍の指示に従い、ルソン島内を北へと向かいますが、多くは旅の途中で命を落としてしまいます。米軍やゲリラの襲撃があり、飢餓と戦わなければなりませんでした。人間の生存には塩が必要で、幼かった恩師のお連れ合いは、女性2人で塩取り決死隊として塩を確保してきました。それでも死が覆うジャングルは、母と子、兄弟姉妹を引き裂いていきます。ようやく戦争が終わり生き残った人たちは、山から町へ降りてきます。その途中でフィリピンの民間人が恨みを晴らそうと待ち構えていました。ところが、その引き上げてきた日本軍、日本人の列の中に、子どもがいるのを見出し、復讐するのを止めました。
 日本の侵略戦争を、植民地の解放と言う人がいますが、明らかに間違いです。それは支配者の論理で、当然侵略したのですから、民衆レベルでは人々から恨まれます。また、恩師のお連れ合いの父は牧師でした。家族には暖かい父でしたが、召集令状をもらい従軍し、機銃掃射でフィリピンの地で戦死しました。牧師としてまさか自分が従軍し人を殺す立場になるとは思わなかったでしょう。私たちは、間違ったとらえ方や自分が思いもしない生き方にいつの間にか従ってしまうことがあります。真実をよく見極め、主体をもって正しい判断をしなければなりません。
 平和聖日礼拝では毎年、日本基督教団から出されている「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を唱和しています。私たちにできることは、この中に記された「見張りの役」を忠実に果たすことです。神様から与えられた命を互いに大切にして、イエス様に従い、信仰生活を全うしたいものです。
 今日の聖書は「種を蒔く人のたとえ」ですが、イエス様の生涯と言葉を語り伝えた人々は、ユダヤ人社会の中で権力を持たない人や貧しい人、宗教家から罪人と呼ばれて差別を受けていた人や労働者、あるいは若干の中産階級の人たちで、学歴も地位もない人たちも多く含まれていました。その人たちは、神の平和を求め真の自由を求め、熱い情熱を傾ける人々でした。イエス様は、空腹や困窮の中にあり差別されている人を見ると、一緒に悩み一緒に考える人でした。そこでイエス様は、宗教家からは罪人と呼ばれ、危険人物とされ、恨まれ、死に値するとされました。イエス様は、善人であると自負する人を相手に、いかにも宗教的なありがたがられ、満足させるような話をするのではなく、宗教家が作りあげた細かな掟を守れとも言わず、権力者を批判し、「種を蒔く人のたとえ」のように、あなたがたこそ神様に受け入れられる人であると教え、生きる力が与えられる話をしました。
 このたとえ話があらわしている意味は、まったく違うものでした。成長しない種は、人々に教え民衆の生活を監視する律法学者やファリサイ人や金持ちであり、自分たちだけが律法を立派に守ることができる完全な人であると思っている宗教家とその信者たちであったのです。掟の実行によって自分の義を打ち立て、出来ない人を差別する者たちです。その人たちこそが、掟の実行によって地位、名誉、富を得て、その罠によって非人間化して温かい心を持ちえない者なのです。そして、罪人呼ばわりされ馬鹿にされ差別を受ける者こそが、よい地に落ちた種です。よい地に落ちた種になれというのではなく、今のあるがままで、よい地に落ちた種であり、よい地そのものだと言っています。
 このたとえ話は、自分の力で立派に生きられると思っている人に対しては語られていません。自分の心が他の人よりも少しはきれいだと思っている人には語られていないのです。すなわち、自分の義を打ち立てようとする人には向けられていません。この世の罪と不正義、自分の罪を見つめることをしないで、自分だけが天国に行けると思っている人には語られていないのです。
 イエス様が語りかけているのは、その人たちから差別を受けている人で、「あなたがたこそよい地に落ちた種でありよい土地である」と言います。あなたがた自身が罪のために自分を卑下していようとも、イエス様はあなたがたが「よい地に落ちた種である」と思っているのです。イエス様は私たちに「あなたがたは百倍の実を結ぶのであり、すでにあなたがたはその実を結んでいる」と言うのです。発想の大逆転です。
 イエス様は、虐げられ差別された人を徹底的に愛しました。イエス様は弱者を「よい地にまかれた種だ」と語り、私たちにも同様に語りかけています。私たち自身は、なかなかそのような実りを得たとは思えませんが、やがて沸々と生きる力が湧いてくるのです。罪あるとされる者を肯定するイエス様は、私たちと共に歩み、自分の義を打ち立てようとしないあなたがたこそ、よい種よい地なのだと言います。自分の義を打ち立て満足し、だめ人間だと罪人を差別するファリサイ派、律法学者の論理から逃れ、全面的に肯定するイエス様に従っていくことこそ、私たちの進むべき道です。
 そのイエス様が広げてくださった、生きやすい地で百倍の実を結んで生きることこそ、生きた信仰です。そのとき、生きる力が与えられたことを実感するでしょう。このようなイエス様と共にある時、私たちは自由にされた者として主体を築き、神様に応え、平和の働き手として、見張りの役を果たしていくことができるのです。

(2023年8月6日 平和聖日礼拝説教要旨)