共に生きることは愛すること

《 マルコによる福音書 10章13~16節 》
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13-16)

 子どもは宝であるとの考えは、現代の少子化の日本ではよくわかります。子どもが誕生した時、明るい光が家庭に訪れ、周りの人たちに大変喜んで受け入れられたことでしょう。子どもの無邪気さ、素直さは大人を喜ばせてくれます。
 ユダヤでも家庭に子どもが与えられると、神様から与えられた民族の財産であり、「神の民」としてのイスラエル民族の存続と繁栄を築く基礎であるとされました。詩篇の中にも、「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」という詩があります。
 子どもは民族の存続には必要不可欠であるからこそ、子に対する教育が大切にされました。年齢ごとの教育の内容があり、今の教育に通じるものがあります。3歳で、父親による初歩の宗教教育が始まりました(日本でも幼児教育は3歳から始まります)。早くに読み書きの練習が開始され、宗教行事への参加も行われました。特に過越祭には、父親は子どもを連れてエルサレムの神殿に巡礼するのが習わしで、イエス様もこれに従って、故郷のナザレから両親に伴われて宮参りをしました。
 5歳で読み書きの練習を終えて、聖書の主要聖句が暗誦できるように教育されました。幼児は5歳ぐらいから爆発的に記憶力が伸び、数字や漢字を覚えますので、その意味では理にかなっています。6~7歳に達した子どもは、会堂にある初等学校に通うことが義務づけられました。就学後には毎日学校で、徹底的に聖書本文の学習訓練がなされ、4~5年で旧約聖書全巻を暗記させられました。このようにイエス様の時代には、徹底した教育がなされていましたが、その教育対象前の小さい子が、イエス様の近くによってきた時に弟子たちとの間でなされた話が、今日の聖書箇所です。
 弟子たちは、大人の邪魔になるからといって、子どもを近づけないようにしています。家族の喜びの源泉、民族の繁栄のもとであるはずの子どもが、近くに来るなと言われているのです。私が幼児として育てられた昭和の半ばぐらいまでは、大人の話はどうせ分からないのだから子どもは加わらないように、さらには大人の中で子どもは騒がず、おとなしくしているようにと教育されたものです。弟子たちも、聖書を学んでいない子どもに、イエス様の話は理解できるはずもなく、騒がしくするだけなので、周りに来られるのは話の妨げになり迷惑だと考えました。母親と子どもは、狭隘な弟子たちによって退けられたのです。
 しかし、イエス様は言われました。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない」と。このことが意味しているのは、子どもの存在自体の肯定です。
 子どもは親と一緒にいる時に一体感を持ち、母親と一緒にいる時にはとても安心感があります。母親が「子どもの心の基地」と言われるのももっともです。たとえば母親が叱られたとすると、子どもはとても心を痛めます。一緒にいる母親が転んだとか、怪我をしたときにも、自分のことのように心配するものです。母親の存在を否定されると、一心同体の子どもは、存在を否定されたように感じます。イエス様の弟子から、母親が叱られたことは、子どもにとってみれば存在を否定されたことになるのです。
 それに対してイエス様は、子どもの存在自体を肯定します。子どもは取るに足りない価値のないものという風潮に抗い、人間のあり方を提示し教えています。子どもを本当に受け入れてくれます。「神の国はこのような者たちのものである」。イエス様は、神様から創造された弱い子どもたちが、親に抱かれすっかり身を任せている姿を見て、子どもたちこそが「神の国」にふさわしいと教えています。
 たとえば、幼い子どもたちと接して遊んでいると、よくこういうことがあります。離れたところから私をめがけて走り寄り、ダイビングするように抱きついてくるのです。ドーンとぶつかり衝撃があっても、私はしっかりと受けとめます。すると子どもは、いかにも嬉しそうな顔になり、私を見てニヤッと笑うのです。またある時には、「両手を持って」と言いにきます。しっかりと両手を持ってやると、前回りや後ろ回りをして楽しみます。子どもたちは、私を全面的に信頼しきっているのです。
 体当たりをしても、受けとめてもらえる。両手をつかんで前回りや後ろ回りをしても、手を放さないでもらえる。そういった大人への信頼感が土台にあるからこそ、子どもは安心感に満たされながら、遊びを楽しめるのです。幼児は特に、親を信頼しています。元来、親子には基本的信頼関係(ベーシックトラスト)と呼ばれる、強い絆があります。無条件の信頼関係、一般の信頼関係よりもはるかに強い信頼関係です。
 イエス様は、自立して何でも一人でできるので誰にも頼らなくても生きていける、よって神様にも頼らなくても生きていける、律法を自分の力で守ればよいという考えは、神の国にふさわしくないと教えます。神様と私たちの関係は、ちょうど親子のような関係ではないかと思います。幼い子どものように、全面的に寄り頼もうとしている私たちに対して、神様は、お前は資格がないからダメとは言われないのです。時にはワラをも掴む思いで寄りかかろうとする私たちを、神様は避けることはありません。走ってダイブしてくるわが子を、親が受け止め、両手をつかんで遊ぶ手をしっかりと持って決して離さないように、全面的に寄りかかろうとする私たちを、神様はいつも確実に受け止めてくださるのです。信仰とは、神様への私たちの全面的依存の関係であります。神様の前で何も差し出す物もない、申し開きもできない者でも、全面的な信頼によって、そのまま神の国の一員として受け入れてくださるのです。私たちは、そこに神様の恵みを感じとることができます。
 これらのことを踏まえると、復活されガリラヤで再び出会うと言われたイエス様に従っていくとき、私たちは、与えられた働きの場である「私たちのガリラヤ」にあって、子どもや周囲の人たちをあるがままに受け入れ、愛する働きをなしていくように促されます。条件を付けるのではなく、無条件の肯定へと押し出されるのです。
 私たちが、遣わされた場で周りの人々と共に生きるのは、無条件で肯定してくださる神様への信頼感が土台にあり、自分自身もまた、他者を愛するものへと変えられたからなのです。それが、イエス様が言われる「神の国」にふさわしい生き方です。そんな私たちを、イエス様は抱き上げ、同じ位置においてくださり、手を置いて祝福してくださるのです。

(2023年6月11日 主日礼拝説教要旨)