神様の権威ある教え

《 マルコによる福音書 1章21~28節 》
 幼児を育てることは、容易ではありません。言うことを聞かない、自分勝手に動く、子ども同士で喧嘩するなど、時には力で押さえつけたくなります。親は子どもの成長に合わせ、育て方の重点を意識します。厳しく接するのか、優しくするのか、知識を習得させるようにするのか、個性的になるようにのびのび育てるのか、育て方の選択を迫られます。厳しく知識偏重に育てると、子どもは豊かなコミュニケーションより形式的な対応をするようになります。
 私は個性的でのびのびするように育てたいのですが、なぜなら子どもにとっていつまでも残るのは、愛される言葉によって育まれるところの愛する心だからです。人は愛される言葉のほうを向いて育ち、人間としての土台を築くのです。そして、喜ばしい人間関係を保つのは、愛される言葉で育てられるからです。そうすると、子どもは何ものにも替えがたい素晴らしい宝を得ることができます。今日の聖書箇所には、イエス様の愛の言葉による影響が記されています。それは、教えの中に抱かれたイエス様の愛の権威です。
 ユダヤ人は安息日に会堂に集って礼拝し、モーセの律法と預言書とを学んでいました。小さな町や村にも会堂があり、それぞれに監督がいます。安息日と会堂はユダヤ人にとって生活の中心でした。会堂の礼拝は、シェマの祈り、聖書や律法の朗読など5つの手順を踏んで行なわれますが、聖書の朗読箇所の解説が含まれています。学者や長老に限らず、イスラエル人の男子なら誰でも、旧約聖書の解説をすることが認められていました。また、ユダヤ人の家族が10家族あれば1つの会堂がなければならないと、律法に定められていました。会堂は主として教育の施設で、大人にはメッセージが伝達され、子どもには初等教育を施す責任をもっていました。しかし会堂には常任の説教者がおらず、人々が礼拝に集まったときに、監督が聖書の解説をする人を指名することになっていました。そこで、どこの会堂でもイエス様は神様から委ねられたメッセージを伝えることができました。イエス様が会堂で教えたとき、その教え方や雰囲気は新しい啓示のようで、聞いていた人々は、律法学者のようでなく権威を持つ者のように教えられたので、驚き感心したのでした。
 ユダヤ人はモーセ五書を律法として最も尊重していました。その核心は十戒であり、律法はまったく神聖なものとしていました。また、律法を説明し補足した言い伝えが、学者によりタルムードと呼ばれる教典にまとめられました。夕ルムードは律法集ミシュナと、その解説からなるゲマラとからなっていました。律法は信仰と生活の最高の規則でなければならず、それは生活を指導するのに必要なものをすべて包含している必要がありました。そのため規則は細分化され、際限のない規律と規則となっていきました。指導する律法学者たちは学派に属し、自分の師から学んだ古い言伝えの知識を用いて語りましたが、律法の精神を忘れ、文字の枝葉末節に拘っていました。律法学者たちは個々の事例に審判を与える義務を持っており、事例の判断のために新しい細かい規則を作り出さなければなりませんでした。
 そのような背景の中で、イエス様の教えが律法学者たちと違っていたのはどこかというと、個人的権威をもって、自分の決断として語られた点です。一方、律法学者は、権威を引用して、自らの決断において語ることはなかったのです。彼らは、特に優れた偉大な律法学者たちからの引用を、自分の判断の支えとしていました。単独で審判することは、間違えば批判の対象となりえるので、決してしませんでした。ちょうど官僚の答弁のように、決して自分に責任が及ばない形で答えるのです。いわゆる大人の対応です。イエス様が話される場合は、イエス様自身の判断と責任において、すなわちご自身の権威で語られました。権威ある専門家たちの解釈を引用されませんでした。人々にとって、イエス様から聞くことは、今までとまったく違ったのです。イエス様はご自身の言葉で、相対する人に、内なる思いを率直に語り教えました。新しい教えとして、神様の真の教えとして、人々には聞こえたのです。
 イエス様の言葉は、会堂内の人々を大変驚かせました。その人々以上に驚いたのが、会堂の中にいた汚れた霊につかれた者だったのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びました。古代のユダヤの人々は、この世界には肉体を持たない汚れた霊が満ちており、世界中を飛びまわり、荒野、荒れた建物、共同墓地などに住むととらえていました。人間の体に入ってあらゆる害を加え、疫病、災難、事故を起し、人を罪に誘うこともできると考えられました。このような彼らの害を防ぐには、先に述べたシェマの祈りの暗唱、律法の朗読、モーセ十誡の遵守が効果的であるとされました。ところが、今日の聖書では、汚れた霊が会堂にいたわけで、普通に教えを聞いて、教育を受け、礼拝している人の中に汚れた霊につかれた人がいたのです。律法学者に聖書の解き明かしを聞いてもなんともなく、逆に居心地がよかったのではないかと考えられます。つまり、汚れた霊には、学者の言葉は届かなかったのです。
 それでは、イエス様が権威ある者として教えるとはどういうことでしょうか。イエス様は、伝統としての権威を引き合いに出して語ったのではなく、自分自身が権威を持つ者として語ったのです。大律法学者の権威にすがるのではなく、しかしまた自分自身を絶対化するのでもなく、事実をありのままに見て確信をもって語っています。その言葉が汚れた霊に届いたのです。つまり、イエス様の語る愛の言葉が汚れた霊に届き、愛の言葉の支配の中では大変居心地が悪く、叫ばざるを得なかったのです。イエス様の愛の言葉とそれが育む人間関係の中では、いたたまれないのです。イエス様は自分の言葉で、自分の責任で、他から非難されるのは覚悟で大胆に語っています。その言葉は、会堂で自分を曖昧にしている人々にとっては新鮮で、喉から手が出るほど望んでいたものでしょう。真の愛に呼応できずにいた者が、できるようになるからです。だからこそ、新しい教えなのです。汚れた霊は「かまわないでくれ」と言います。今まで通り、人々の間に紛れ込んでいたかったのです。律法学者が語る曖昧で形式的な教えが生み出す関係の中に埋もれていたかったと言えるでしょう。しかしイエス様の愛は人々を照らし、汚れた霊につかれた人を明るみに出し浮かび上がらせました。人々の間に潜んでいた汚れた霊は、イエス様に向かい「神の聖者だ」と会堂に集まった者たちの前で叫び、自分が汚れた霊につかれた者であることを白日の下にさらしました。イエス様の愛の言葉こそ、人々の間で力を発揮し、人々を癒し、正しい方向へ導き、いつまでも残るのです。汚れた霊は出ていき、その人は癒されました。イエス様の愛は人々の間に浸透して、癒しと喜びを起こします。私たちも教会でイエス様の愛の言葉を聞き、喜び交わっていきたいものです。

(2023年5月7日 主日礼拝説教要旨)