現実のなかで讃美歌を

《 詩編102編19-23節、使徒言行録16章25-34節 》
 歌うということについて、以前、その効用を聞いたことがあります。腹筋や横隔膜を使って深い呼吸を可能にし、また顔や顎の筋肉も使って唾液腺も刺激されるなど、健康にとっていいことばかりであるというものであったと思います。皆さんのなかにも、そのことについて詳しい方もおられるのではないかと思います。
 讃美ということについても然りで、きっとそれ以上のことがあるのではないだろうかと思います。今日の聖書の箇所には、「主を賛美するために民は創造された」とあります(詩編102編19節)。私たちはそのように造られているということを思うと、その‟効用“はなおさら大切ではないかと思うのです。
 新約聖書の使徒言行録の中では、使徒パウロとシラスが登場します。彼らは、帝国支配の厳しいフィリピの都市においてイエス・キリストを宣べ伝えていた時、人々に捕らえられてしまいました。ローマ帝国の市民たちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しているということを理由に、高官たちに衣服をはぎ取られ、むちで打たれ、牢に入れられたことが記されています(21節)。厳重に見張られた一番奥の牢で、足枷をはめられていました。そして、希望を見出すことのできないそのただなかにおいて、真夜中に、パウロとシラスは讃美の歌を歌い、その声が響きわたり、他の囚人たちも聞き入っていた様子が伝えられています(25節)。これは、単に自分たちを鼓舞するためだけであったのではないと思われます。自分たちを取り巻く現実がありながらも、さらにそれを突き抜けた、何か信仰において主イエスの光のなかにいるような時を、暗闇のなかで過ごしていたのではないかと想像します。讃美ということについて考えさせられる、印象的な場面です。
 次のようなたとえを聞いたことがあります。イエスのなかに入るとは、ちょうどステンドグラスのある教会の中に足を踏み入れるようなものだと。つまり、その中に入ってこそ、初めてその光射し込む美しさが分かるという意味で、その中に入ることの大切さを改めて思わされます。そして讃美を通して、私たちはそのなかに進み入るのではないだろうかと思うのです。

 さて、今日の旧約聖書の箇所の詩編102編に目を向けると、ここにも、悩みのなかに置かれている詩人が主を讃美する内容について記されています。全体的に個人の苦悩が綴られているこの詩編の時代背景は、バビロン捕囚期の後に、イスラエルの民全体が非常に心を暗くしている時代であると言われています。ですから個人も、また社会も、希望をもつことができる状況ではありませんでした。例えば12節に「わたしの生涯は移ろう影」とあります。これは、夕暮れ時に、自分の影が地面に長く伸びている様子を表現しています。そのようにして夜が迫る兆しが、詩人の身を刺し貫いています。しかし、それに続いて「あなたの歳月は代々に続くのです」(25節)、「しかし、あなたは永らえられます」(27節)との思いに集中していきます。そして自分がそこに連なる者であることを知り、そのなかに置かれている心境にある、という印象を受けます。詩人の深い孤独な苦悩が、大いなる主の栄光に包まれていくことへの転換は、讃美を通して為されています。そして、その証しを「後の世代のために」書き記されなければならない(19節)と、視点は自分を越えて未来へと移されていきます。
 これらの箇所を見ると、讃美というものが自分のためではなく、むしろ讃美を重ねるごとに、その重心が主にあり、私たちが主のなかに共に置かれていることの幸いに、気づかされていくことが分かります。そしてそこから、明日に向けての新たな視点をも与えられていくという意味では、主への讃美は、現実逃避ではなく、むしろ私たちを、深く現実に関わる者へとしていくのではないだろうかと思います。

 あるクリスチャンの青年が、洗礼を受けて間もない頃、何かを悟ったように、ある日の礼拝後の青年会で言いました。「あれは自分にヒットした」と。「礼拝に来るのは、自分のためとばかり思っていたけど、礼拝というのは、主のためなんだ。主を讃美するのが礼拝であるということに、今、気づいた」と言い、そのことが彼の言葉で「ヒットした」のだと。その気づきは、考えてみれば、礼拝のごとの私たちの気づきでもある、と言うことができるのかもしれません。その彼も、後に神学校に入り、今は牧師となっています。かつて、あの転換があり、今もそのなかに生きているのだと、ふと思い出されます。

 先ほど、時代背景ということに触れましたけれども、バビロン捕囚から解放された後の時代というのは、そこからイスラエルの民が、荒廃した地で神殿を再び建て上げていく苦労の歩みでした。内外に実に多くの課題が次々と起こり、そのなかで神様が、エズラ、ネヘミヤという人物を用いられていきます。概して見れば、大切な点として、そこに信仰による未来志向があるということだと思います。その視点に考えさせられるところがあると思うのです。時代、時代に、主が導かれ、先ほどの詩編の作者のように、「自分のため」から、「主のため」という視点の転換は、私たちを内向きな思いから、未来を見つめる視点へと導き、また、粘り強い信頼のうちに、希望が与えられてくるものではないかと思います。

 さて、先ほどのパウロとシラスの話の、次の展開を見てみたいと思います。牢屋に入れられていた彼らは、讃美を歌い、他の囚人たちや看守もそれを聞いていました。その時、牢の土台が激しく揺れ動き、大きな地震が起こりました。囚人たちの鎖もすべて外れて、扉も開いたと言います。そして話は、さらに看守に注目が移っていきます。看守は剣を抜いて、自らの命を断とうとしました。彼は、なぜそうしようとしたのでしょうか。大地震が起こり、神への恐れが生じたのは間違いないことだと思います。また、それに加えて、囚人たちが、皆逃げてしまったと思い込んだためであるとあり(27節)。自分の、看守としての役割を務めることができなかったという感覚というのは、もしかすると、例えば日本の戦国時代のような時代に、藩主に対する忠誠を尽くすことができなかった家臣のような心境によるものかもしれません。ここでは藩主の代わりに、尽くすべきはローマ皇帝、またフィリピの都市全体に及ぶローマ的圧力によるものと言えます。その意味では、この看守は、その目に見えない力に、心の視野を奪われてしまっていると言えるのかもしれません。

 パウロは、牢屋の中から、大声で、「自害してはいけない」と言いました。文字通りには、自分に対して悪しきことを行なってはいけない。自分に害を加えてはいけないという言葉ですので、あらゆる自己破壊的なことをしてはいけないという意味として理解できます。それを、緊急事態として声を大にしてパウロが呼ばわっています。それは、人に「生きよ」と語りかける、今日も変わることのない主の御心であると言えます。
コロナが長引くなかで、旧約聖書のコヘレトの言葉(かつての伝道の書)が、テレビ番組(NHKこころの時代)として放送され、教会だけでなく一般にも大きく反響があったそうです。コヘレトの言葉と言えば、「一切は空」「すべては空しい」という言葉が印象的な内容の書ですが、この書を長く研究してこられた小友聡牧師は、「これは、先行きが不透明ないまを生きる私たちに、非常に意味があるメッセージだと思う」と言われます。その解釈によれば、「明日がどうなるかわからなければ、今日を生きることに意味はないのか」とこの書は問い、「どうなるかわからない、だからこそ、今日を生きる意味がある」、「今日を生きよう」「いまを生きよう」というメッセージに、逆説的になっているのだと(※)。そのことを思い出しました。ここにも、聖書を通して、私たちに「生きよ」と語りかける御心が示されていると言えます。

 今日の箇所では、この話は真夜中の出来事でしたけれども、ある意味で、闇という状況が意味深長にも聞こえます。尊ばれるべき命がその反対に脅かされ、それが人に向けられたり、その反動で他者に向けられたり、ということが起こる世のなかであることを、毎日のニュースに思います。今日、私たちの世界は、全ては美しい世界であると安易に言うことができない、そういう闇という状況がある現実が、常態化しているかのようにも思えます。
 しかし、この聖書の箇所は、新しいことが起こり始めたことを告げているのだと思います。ここを読むと、看守は、「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり」とあり(33節)、ここに、愛の業を読み取れます。傷を負わせてしまった二人に対して、また神様に対して自らが犯した過ちを心から詫びている姿が目に浮かびます。また、福音書の中で、主イエスが、文字通り受難に遭われる前に弟子たちの足を洗ったことも頭をよぎります。看守にとっては、これは赦され、こころ溶かされるようななかでの懺悔の行為であると読めます。そのことが、洗礼と共にありました。ローマ社会にあって、小さな変革が、しかしはっきりと音と立てて起こったことを示しているのではないでしょうか。それは、真夜中の牢屋という、閉ざされて光が差し込まないような場所に、変革の灯がともったと言うことができると思います。
そして、家族という最も近い存在にも焦点が当てられ、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)と、使徒言行録は、家族の視点を大切にしています。そのようにして、じわりじわりと主が地道に事を為しておられることが、改めて今日も伝えられていると思われます。
 今日の聖書の箇所にある、真夜中に讃美する姿を通して、私たちもそれぞれの置かれている現実のなかから日ごとに主を讃美する者とされ、その輪に加わる一人一人でありたいと思います。平和の主の御心が、今日も、一つまた一つとこの地の隅々において成りますようにお祈りします。

(※)『別冊NHKこころの時代 宗教・人生 すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』若松英輔、小友聡著、NHK出版、2021年、30ページ。

(2022年7月31日 礼拝説教要旨)