望みをつなぐ人

《 マタイによる福音書 12章15~21節 》
 新しい年度も始まり、5月になりました。連休を迎えたこの時期、改めて日々の生活の中で意識すべきことは何だろうか、と考えることの多い時ではないかと思います。
 以前、ある番組で著名な指揮者が、日本の小学校のオーケストラ部の子どもたちに、音楽を教える特別な授業風景を見ました。その中で、音楽の練習の他にも、一緒に食事の準備をしたり、庭で土を耕す仕事をしたりするなど、お互いに触れ合うプログラムを通して楽しく時を過ごした後に、その指揮者が、クラスに記念品として地面を掘るスコップを贈る場面がありました。一風変わったその記念品の意味は、おそらく音楽も表面的な部分ではなくて、より深く根を掘り当てるための作業が必要だということだったのだと思います。そしてそのことを通して、子どもたちは一時の音楽の技術的な指導以上に、音楽のこころなるものをより深く理解することの大切さを印象深く学んだのだと思います。示唆に富む内容でした。
 似たような意味で、私たちも、日頃、聖書を読む際に、より深い根にあたる部分を掘ることの大切さを感じます。そして、文字を読むに留まらず、改めてそこから神の思い、また、私たちに対する主イエスの思いというものを聴き取ることができるのではないでしょうか。

 今日のマタイによる福音書の箇所では、イエス・キリストとは、こういう人なのだということが改めて告げられています。旧約聖書のイザヤ書が引用されている箇所に注目すると、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」(18節)とあります。「適(かな)う」という言葉は、見方によっては、「お眼鏡にかなう」というように、上下関係の中での言葉のようにも思えますが、たとえば文語訳でこの箇所を見ると、「わが心の喜ぶ、我がいつくしむ者」とあり、また聖書の元の言葉では、「私の魂が喜ぶ者」となっています。誰かの存在を嬉しく思い、言ってみれば、樹々の若葉が萌えるように喜んでいる。そのような神様の思いがここにあることを、読み取ることができるのではないでしょうか。神様の、イエスに対する思いというものが記されています。また実は同じ言葉が、既に主イエスが洗礼を受けた時にも語られていることも注目することができます(マタイ3:17)。
 また、主イエスの人びとに対する思いも記されています。特にこの個所には、印象的な表現が用いられています。「彼は傷ついた葦を折らず」、「くすぶる灯心を消さない」(20節)。いずれも、当時の人々にとっては、生活感が感じられる表現です。ここで言及されている「葦」は、ペルシア葦として知られる植物で、その茎は、物差しやインクを付けてペンとして用いられるなど、日常的な用途に多く用いられていました。ですから、折れた葦と言えば、心くじかれることや心を痛めること、またそういう状態にある人をすぐに連想することができる表現だったと思います。同じように、ここで言う「灯心」も、きっとどの家庭でも使用していた簡易的なランプでした。おそらく素焼きの皿に油を入れ、芯をひたして灯りをつけたもので、それがくすぶっている時の様子が目に浮かびます。夜間に使用する、生活必需品です。それが今にも消えそうで、それが尽きてしまえば一瞬にして真っ暗になってしまいます。そのことが、人々の心理的な状態として表されています。
 神に選ばれたその人は、傷ついた葦のような心を決して折るようなことをしない。くすぶる灯心のような心から、そのわずかな残り火を奪うようなことは決してしない。イエス・キリストとはそういうお方であると言われています。そして、それらは、何か現実味のない高尚な言葉ではなく、人々の生活に根差した言葉で語られていることにも、人々に寄り添うという「思い」が示されているのかもしれません。主イエスは、そのように粘り強く、諦めることなく人々に関わるお方であると言えます。

 昨年、教会のふじの花の種を収穫した話をいたましたけれども、その後、その種を小さな鉢に蒔いてみたのですが、いっこうに芽を出しません。5月になって暖かくなってきたし、水もあげているのに…もうだめかなと思っていたところ、なんと先週、気が付けば、2センチくらいの芽がすっと立ち上がっていました。あきらめそうになっていたところに、その発芽を見て、小さな喜びがありました。皆さんも生活の中で似たようなことを経験されることがあるかもしれません。また、その後、もしかすると教育に携わる人というのは、これに似たことを日頃多くの場面で経験するのかなと思いめぐらしていました。私が昔、学生の頃に指導を受けた先生が、よく口癖のように、「さじを投げても、必ずそれを拾いにいくこと」と言っていたことなどを思い出します。あきらめずに、粘り強く、という時の心境だと思いつつ、そのようなことも連想しました。
 今日の聖書の箇所では、ましてや主イエスは、「傷ついた葦を折らず」「くすぶる灯心を消さない」といわれています。それほどに、弱い者を心にかけ、いたわり、生きる望みを与え続けてくださるということが約束されています。そしてそれは、私たちの側が望みをもつことができるようにしてくださるということなのだと思います。主、イエスとは、そのようなお方なのだと告げられています。
 また当時、状況として、人々はローマ軍と戦っていた時代でした。「異邦人に、正義を知らせる」とは、自分たちを支配し、苦しめる者たちに対してのことをも言っています。しかしここでは、「彼は争わず」(19節)とあり、非戦の立場を貫くことを告げています。そして、その根拠を旧約聖書に置き、イエスはそれを成就するのだと人々に訴えています。そのような仕方で平和を創り出すことについては、この福音書の中にある、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)の言葉も思い出されます。当時の状況の中で、私たちが信じている主イエスというお方はこういう方であるという姿を見る時、同時に、この地に主の正義と平和を求めることを、私たちも教えられているように思います。

 ここまで主な内容を見てきましたけれども、改めてこれらのことに先立つものとは何でしょうか。先程、イエスの洗礼の際にも語られた、「わたしの心が喜ぶ、愛する者」の言葉が最初にあるということを見ました。繰り返しその地点に戻るかのように、それが土台となっているのではないかと思います。掘り起こすと、常にそこにあるもの、それが、神の「思い」ではないでしょうか。
 私たちのことを、あきらめず、時に諭し、時に労わり、望みが消えぬように、それが絶えずつながっていくように支えてくださる主の思い。ともすると私たちは、クリスチャンとして歩んでいても、その生きた主の思いに鈍麻してしまうことがあるのかもしれません。日々の生活の中で、目の前の多くのことに心を配る私たちですが、私たちに対する確かな主の思いに気づかされていることができますようにと祈ります。また、この地に対し、粘り強い御心をもってかかわり続けてくださる主を心に留める時、私たちも、与えられた場において、その思いを現していくことができますように。どうか主の正義と平和をこの地に求め、今日も共に祈りを合わせたいと思います。

(2022年5月1日 礼拝説教要旨)