現実へと向かう心(一点を見つめて)

《 マルコによる福音書 9章2~8節 》
 キリスト教では、イースターを迎えるまでの約六週間の受難節(レント)の期間に、古くから、克己の習慣として何かを断つということをすることがあります。海外の若いクリスチャンたちの間では、例えばチョコレートやコーヒーの他、最近ではスマホ習慣を断つということが言われ、デジタル・ファースティング(直訳:デジタル機器の断食)と言うのだそうです。神様との関係も、「聴く」ということにその基本姿勢があることからすれば、それを妨げているものを見出す機会になり、それにより神様との関係性をより深いものとするという訳です。

 海外に限らず、例えば食事の時の会話で、家族の誰かに「ちょっと、聞いてるの?」と言っても、スマートホンを触っていて生返事だけが返ってくる、というのはよくある風景かもしれません。必ずしも若い人たちだけではないかもしれませんが、しかし若い世代の人たちのスマホ依存のことが心配され、時々ニュースにもなっています。その場合に言われていることは、たとえばスマホを食卓には持ち込まない、寝る時は、充電を兼ねて違う部屋に置くなど、工夫として具体的な策が挙げられています。それほどに、その依存度や磁力は深刻であるようです。また、このデジタル・ファースティングを実行するためには、友人や知人に宣言しないとできず、さらには、他に意識を「集中」するものがあることが大切であるとのこと。音楽、楽器、読書、スポーツなど、楽しいとのめり込めるもの、また代わりに集中できる一点があることが、鍵になると言われていることも頷けるのではないでしょうか。

 さて、今日与えられた聖書の箇所は、主イエスの“山上での変容”と言われる箇所です。マルコ福音書では、この話は、おおよそ福音書の全体の中で中央に位置しています。主イエスは、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山へ登られました。その時、主イエスの衣は、この世のさらし職人の腕も及ばぬほどに真っ白に輝いたと言います。
 その際のペトロの反応が、印象深く記されています。エリヤとモーセが現れて、主イエスと語り合っているのを目の当たりにし、彼は、自分がそのような場に居合わせたことのすばらしさのあまり動揺しつつ、その三人のために、仮小屋を建てたいと言いました(5、6節)。しかし、三人の間では、その時重要な話がなされていました。ルカ福音書の方では、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」話していたとあり、そのような神様の御心が示されています。ペトロの耳に、そのことは入っていたでしょうか。音としては聞こえていても、おそらく彼の中には届いていなかったかもしれません。つまり、神様の重大な御心が語られてはいても、そして音としては耳に届いてはいても、ペトロは、上の空であったという状況だったのではないかと想像します。彼は、光り輝きに気を取られ、そのような恍惚状態に留まりたいという一心でした。そして、それに対して、「これ(主イエス)に聞け」という言葉が、雲の中から弟子たちに向けて発せられました。

 先ほど、生活の中でも集中する一点が大切であるということに触れましたけれども、先日聞いた、ある話を思い出しました。卑近なたとえですけれども、相撲中継の中で、ある元横綱が現役時代に土俵下で取り組みを待つ間に、周囲からはずっと腕を組んで目を閉じているように見えていたということについて、実はそうではなく、周辺の小さなゴミであるとか、俵などの綻びなど、何でもいいからその一点を見つめ、集中していたのだと。またそれを、ある人から教えられて、それ以来、集中できるようになったという話をしていました。一点に集中することで、目の前のさまざまなことから、時にそこで予想外の出来事や展開が生ずる時にも、影響を受けないというその効果は意外と大きいようです。

 「これはわたしの愛する子、これに聞け。」そのようにマルコ福音書の中心において、語られています。シンプルなことですけれども、予想外のことが起こるこの世の中で、どのような時にも、わたしたちに与えられている基軸としての一点を、聖書は私たちに改めて教えています。
 またペトロたちは、直前の箇所で、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われています(8章34節)。このことは、山上での出来事と合わせて考える必要があると思われます。ペトロは、そう言われているにもかかわらず、主イエスを自分の所有物のように小屋の中に留めておきたいと言い、とっさのことに本心が現れてしまったと言えます。建物の中に、主イエスを閉じ込めておくという企てが、彼が思いついたことでした。

 たとえば、西洋の古いお城などには、礼拝所という部屋があります。そこは、石造りで落ち着いていて、それほど広くはないけれども、礼拝する場所としては美しいたたずまいです。王の親族の婚約式なども行われたかもしれない、そんな想像もされます。しかし、その部屋を出て廊下の壁などに目をやると、そこには、当時の武器やよろいが飾られています。そして、それらは礼拝所と切り離せないのだと気づかされます。そこには、たいていお抱えの牧師がいて、王様のために祈り、王様が戦いに出て行く時には戦いの勝利を祈ります。そしてそのための礼拝所という一室が、奥まったところにある訳です。ある意味で王様にとって、都合のよい祈りがささげられる場所でもあります。これは、遡れば、旧約聖書の中で「偽りの預言者」がたびたび登場して、イスラエルの王に都合のよい預言ばかりを告げる役目をしているのと似ていると思います。エレミヤ23章、エゼキエル13章など、多くの箇所に出てきます。王様にとっては、預言者も、お抱えの宗教者も、またそのための部屋も、自分のための道具になってしまっています。
 ペトロが、主イエスたちのために、仮小屋を建てましょうと言ったのも、純粋な思いからだったかもしれませんが、しかし、もしかすると、そういう危険性をはらんだ話ではないでしょうか。今から先、輝かしい側面だけを見ていたい。そのために、イエスたちに、この中に入って、自分のために留まってもらいましょうということですから、ペトロは自分が主人に、あるいは王様になりかかっていると言えるのだと思います。そして、そこで語られたのは、「いや、そうではなくて、ペトロよ。あなたこそ、イエスに聞きなさい」ということです。聞きなさいとは、従いなさいということのはずです。そのことを、特にこのレントの時期にもう一度考えるべきことであると、言われているように思います。
 信仰とは、自分に都合よく何かを所有するようなものではなく、それを生きるようにと教えられてはいないでしょうか。また、それは、何か精神修行のようなものではないということも大切な点であると思います。というのも、主イエスの神様に対する従順は、「これはわたしの愛する子」(9章7節)という神様の愛に支えられ、その中に身を置きつつ応えるというものでした。それは土台のように、それがなければ私たちの信仰も、キリスト教も、むなしくくずれてしまうほど下から支えているものです。そのことが、「これはわたしの愛する子」という事実に込められていると言えます。
 その意味で、日々の現実の世の風当たりの強い時においても、神様の愛の中に置かれ、先にその交わりの中にあるということを、また、その大きな土台の上に私たちがあるということを心に深く留めたいと思います。その信仰を、主イエスが私たちに教えてくださり、また与えてくださったことを心に留め、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人12:2)過ごしていきたいと思います。
 多くの暴力と破壊、不安と動揺の中にある状況において、まことの主を主とすることにより、この地に平和の御心が成りますように、礼拝を守る全ての教会ととともに祈ります。

(2022年3月6日 礼拝説教要旨)