逆境の中で(キリスト者の達観)

《 エレミヤ書 29章4~14節 》
 聖書の中には多くの預言者が登場しますが、彼らはその時々の人々の置かれた状況に対して、神様から必要な言葉を与えられました。それらは時に特徴的であり、また不思議な響きを持った言葉でもありました。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」(1章9~10節)。これは、エレミヤが最初に神様に語りかけられた言葉です。
 抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、とは決して前向きの言葉とは言えません。これらは、彼らの都エルサレムが大国バビロニア帝国によって滅ぼされるということを意味していました。そして、人々がそれまでの国の歩みを顧み、中途半端な形での立ち直りではなく、完全に神様の前に白紙のような状態になって初めて神様は、「建て、植える」のだということを伝えられました。この内容は言わばエレミヤのそれからの働き全体を言い表している言葉です。
 そして、「建てる、植える」という言葉は鍵となる言葉であり、今日の聖書箇所では、5節に出てきます。「家を建てて住み、園に果樹を植え」なさい。この時には既に人々はバビロンに連行され、そこで、捕囚としての生活を強いられていました。ですから、そこに果樹を植えるとは、その事態を受け入れ、その地に長く住むことを意味していました。植林の場面を想像すれば、やはり木を植えるとは木の成長を願ったことであると思います。また、このことは象徴的な意味もあり、ユダヤ教の会堂を各地方で建てるという習慣もこの時代に始まったと言われています。言わば、異教の地で信仰を守り育てなさいと、エレミヤを通して神様はここで言われたのだと思います。

 以前、私は少し留学をしていましたけれども、その時に、学生寮に滞在していました。その学生寮は古くからある教会によって運営されていて、三階建ての寮の一階部分の一部が教会となっていました。それを建てたのは、イギリスにおけるドイツ人教会で、集う人々は毎週ドイツ語で礼拝をしていました。最近はそうでもないかもしれませんが、戦後間もない頃は、当然敵国であったイギリスにおいてドイツ人が生活するということは苦労が多く、ドイツの犯したことへの強い非難もあり、肩身を狭くして生活していたことと思います。日曜日に教会に来られるご高齢方々からは、外見からは分かりませんでしたが、そういったことが伝わってくることがありました。そのようなことと共に思い出すのは、その建物の前にあった、二本の立派なリンゴの木です。この季節には見事に実をつけていて、今から思い返すと、異国の地にあって果樹を植えるということに特別な意味があったのではないかと思います。厳しい現実の中でもそこに留まり、毎年実がなる毎に希望を見出していくということがあったのではないかと、この聖書箇所からふと思い出しました。

 さて、この箇所では、もう一歩大切な内容へと展開していきます。それは「その町の平安のために祈りなさい」ということです。旧約聖書のユダヤ民族というのは、元来宗教的に強く一致団結していて、異教の神を拝む敵に妥協するくらいならば、殉教した方が良いという程の信仰を持つ人々でした。ですから、自分たちの国を滅ぼし、強制的に自分たちを連行してきたそれらの人々のために祈るということは、受け入れがたいことであったことでしょう。確かに自分たちが生き延びていく上で、その町が平安であることは必要なことでありましたけれども、自国のことを優先するのではなく、周囲の平安を先に祈るというのは、本心においては難しいことではないでしょうか。殊に、私たちの置かれた今日の状況を考える時、世界各国に余裕がなく、自国のことばかりを考えて優先することを当然とする状況においては、必要不可欠な教えとして聞こえてくるのではないでしょうか。
 これは実に新しい教えであり、このような物事の達観した見方というのは、もしかすると自分に不利な状況に置かれる中で見出されたり、与えられたりすることなのかもしれません。達観とは、全体を見渡した上で、何が大切かを見極めることであると思います。自分のことに捕らわれていないで、高い所から見て、より大切なことに気づくこと、と言うことができます。また、さらに達観と言えば、それによって、何事にも動じない心境にあるということだと思います。

 最近の若い人たちの会話の中では、達観というとどうもあまりいい意味では使われないのだそうです。「同級生の彼は達観している」と言う時には、話していても反応が悪かったり、どこか冷たくて同情心がなく、何事につけ悲観的な見通しをする。そういう場合に、「あの人はやけに達観している人」と使われたりもするようです。しかし、今日はそういう意味ではなく、信仰的な達観ということをもう少し聖書に聞いてみたいともいます。
例えば、使徒パウロは自分が捕らえられて獄中にいる時に、そのことを嘆いたりせずに、むしろ兵営全体にキリストのことが知らされているということを喜んでいます。兵士たちが、どうやらパウロという人物は、キリストを伝えているためにこうして捕まっているらしいことを知る。そのようにして広まる機会となっていることをパウロは喜びとしていると、フィリピの信徒への手紙で記しています。自分にとって不利と思えることも、そのように考えることができるのは、やはりそこに大きな価値観の転換があるからであるはずです。自分という枠があるとすると、普通はなかなかその輪郭を超えられないのですが、私たちには、使徒パウロが得ていたように、または今日の箇所でエレミヤが語りかけられたように、神様の視点が与えられているのだと思います。一人一人向き合う課題は違うのですけれども、やはり自分の視点を超える神様の視点というものを与えられたいと願います。

 また、何事にも動じないという心境についてはどうでしょうか。それはいったいどこから来るのでしょうか。私たちは、日頃多くのことに動揺することがあるように思います。大きな自然災害のこと、職場のことや家族のことなど、むしろ平安な日を過ごすことが少ないのが現代人の日常かもしれません。
 私のクリスチャンの友人の一人は、職場において日々格闘し、そういった中で支えになった御言葉があったと話していました。最近でも職場の過労死の問題がニュースになっていますけれども、彼の職場も過酷であったといいます。そして出勤の際、会社に着く時にはいつも自分を聖書の言葉で鼓舞してタイムカードを押していていたそうです。それは、福音書のこの言葉でした。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28節)。神を畏れる者は人を恐れる必要はないのだと、自分に言い聞かせてその日を始める、厳しい環境であったのだと思います。彼の場合は、そのような支えがあってその時期をなんとか乗り切りましたけれども、きっと今日も厳しい現実を生きながら、人知れず歯を食いしばって生活している人々がいることであると思います。そういった状況にある人たちに、やはり主イエスは、人を恐れることはない。むしろ神様を畏れなさいとおっしゃると思うのです。神様を畏れるということこそが、私たちに動ずることのない心を与えるのだと聖書は言います。
 そういったことを、神学者たちはこういう言葉で表現することがあります。それは「究極以前」という言葉です。究極のことというのは、神様の前に立たされた時に、永遠の命を与えられ、それによって平安を得ているということを指します。神様から切り離されることはないということが正に究極のことです。そして、日常には実に様々な出来事があるのですけれども、そういった意味において、私たちはまだ致命傷を負っていない、即ちそれらは究極以前のことであるのです。たとえ私たちを動揺させるようなことがあったとしても、それは、私たちにとって「究極以前のこと」なのだと堂々と言うことができるのです。我々が畏れるべきお方は神様だけであって、救いを得ている私たちにとっては、他のどのようなことも恐れるに値しないと。そういう信仰による達観を、私たちは与えられているのではないでしょうか。

 さて最後に、先程のリンゴの木の話をもう少しだけしたいと思います。ちょうど今頃の季節になると毎朝いくつものリンゴが地面に落ちていて、学生たちはよく鳥につつかれる前にそれを採ってきては、皆でリンゴパイなどを作ったりして秋の恵みに与っていました。しかし、このリンゴの木とには大切な意味が込められているのです。お話しましたようにそこはドイツ人教会で、おそらく宗教改革者マルチン・ルターの言葉にちなんで教会の人がそれらの木を植えたのだと思います。その言葉というのは、「たとえ明日、世界の終末が来たとしても、私は今日リンゴの木を植える」という言葉です。たとえそういう究極の時が来たとしても、今日、リンゴの木を植える。「今日も植える」とは、日々の働きという神様から与えられたことを、落ち着いて為していくのだという信仰の在り方を意味しています。私たちの日常の出来事には様々なことがありますけれども、信仰の目で見るならばやはりそれは究極以前であり、私たちは動ずることなく与えられた日常の一つ一つを変わることなく、ちょうど丁寧にリンゴの木を植えるように為していく、またそのような気持ちで過ごしていくということを教えられているのではないでしょうか。
 エレミヤと彼の人々は、異国の地において御言葉を聞きました。そこでは逆境の中での生活でしたけれども、その与えられた場所で、果樹を植えるということを為していきました。それは、その地でお互いの信仰を守り、また育てていくためのものでありました。
 わたしたちもまた、教会という神様から与えられた恵みの果樹を大切にし、共にそれを育てていきたいと思います。
(2016年10月16日 礼拝説教要旨)