受難の季節

《 出エジプト記 17章1~7節 マルコによる福音書 1章12~13節 》
 私たちは、毎日の生活において、情報とその映像が溢れる中で生きていますけれども、聖書の書かれた時代の人々は、きっと言葉だけで物事をよりみずみずしく心に思い描くことができたのではないかと思います。伝える側も、受け取る側も、情景を言葉で受け止めるということについて、私たちよりも、より豊かな感性をもっていたのではないだろうかと想像します。
 たとえば、旧約聖書の中で、「青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い」(詩編23編)との言葉を聞けば、牧場に羊たちが置かれるという情景を、神様と私たちの関係を示すものとして豊かに思い浮かべることができたのではないかと思います。
 また、イザヤ書では、平和について、次のように語られています。「狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。…乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(イザヤ書11:6-9)とあり、たとえで語られている平和であることの情景が、人々の心に強い印象をもって深く残ったことと思います。

 さて、今日の新約聖書の箇所は、受難節の時期によく読まれる箇所の一つです。主イエスが、荒れ野において誘惑を受けられたという、マタイ、マルコ、ルカにも見られるこの話では、たとえば、悪魔が石をパンに変えてみよとそそのかすと、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と主イエスが答えられる場面がよく知られているのではないかと思います(マタイ4:4)。しかし、マルコ福音書では、具体的な話は記されておらず、他の福音書に比べて非常に短いものとなっています。
 改めて、この数行に記された内容を眺めると、それは、主イエスをめぐる様子だけを伝えています。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:12-13)。これは、先ほどの他の福音書の場合と比べると、信仰についての教訓としてではなく、むしろその場の情景を表していて、何か一つの絵を見ているかのような印象を受けます。
 また、ここに「その間、野獣と一緒におられた」という内容がありますが、マルコだけに記されているこの内容は、先のイザヤ書の箇所と関係していると言われています。これは、強いものが弱いものに危害を加えない状態、すなわち、全き平和な状態を表していると言われています。旧約聖書の時代で言われていた終末観、つまりやがて来る世界はそのようなものであるということを、この箇所は、今、主イエスと共に実現しているということを伝えています。

 さて、先ほどこれは情景描写であり、絵のようだと言いましたけれども、それを心の中で受け止めるということは、それが私たちの内側で心象風景にもなり得るということだと思います。以前にも触れた話ではありますが、「こころの原風景」ということについては、広く一般にも論じられているようです。たとえば、それは田舎の風景であったり、平和で穏やかな風景であったりと、そういう原風景が、人の中に無意識のうちにも形作られているようです。また、そう考えると、反対に戦時下の子どもたちの心の様子はいかばかりかと、子どもたちの受けた傷が案じられます。
 心の原風景ということについて詳しく調べている人が、国内の10代の若い人を対象に「こころの風景」に関する作文を書いてもらったそうです。これは、その中のある一文ですが、ある高校生の、「人は、前に進むことも大事だけど、こんな風に後ろをふり返って思い出にふれてみるもの大切だ…〈中略〉…。今の私があるのは、この大事な思い出のおかげで成長していると思っているからです」という文章が紹介されていました(※1)。また、説明によると、そういう原風景というようなものが、どこかで自分に影響を与えていて、何かに迷った時に立ち帰る「参照点」となると言います。そして、それがあるおかげで成長していると思うと、先の文章にもありました。前進しながらも、時々立ち止まってそれを確認したり、それが自ずと判断基準となったりしているという意味での参照点がある。そうだとすると、その「風景」というのが、いかなるものであるかということが肝心になってくるはずです。

 今日の箇所では、主イエスがおられるところは、自ずと平和に満ちているということが、情景として見えるように、私たちに示されていました。そして、さらに大切なこととして、「その間」と言われているように、主が試みに遭っている間も、そうであったと、主イエスとその周りの様子を伝えています。その情景を、今日私たちは、心に深く留め、それを保ちたいと思います。

 さて他方、今日の旧約の聖書箇所に目を移すと、出エジプト記の話はどうであったでしょうか。その様子を見てみたいと思います。モーセによってエジプトから導き出されたイスラエルの民は、荒れ野という環境を旅するなかで非常に厳しい状況にあり、人々は試みに遭っていたと言えます。彼らは荒れ野を旅し、途中で飲み水がなくなり、のどが渇いてしかたがないという状況に陥りました。
 しかし、モーセに率いられた彼らには、それまで神様の数々の奇跡を通って救われてきたことを考えると、目の前の現状に対して、「神様が」という、もう一つの考え方があってもよかったはずだと思います。実際、この箇所の冒頭では、「主の命令により」とある通り、人々は、この旅の指揮をとっているのは主なる神であるということを頭では理解していたと思いますし、主が責任をもって持ち運んでくださることを信じていたと思います。
 しかし、彼らは現状だけに気を取られ、モーセに不平をぶつけました。また、頭の中ではエジプトに逆戻りし、それは信仰的に見れば、神様にもう一度背を向けたことを意味します。そして、まさにその状況のなかで、争いが起こりました。後の教訓として、その地名をメリバ(争いの意味、7節)と名付けたほどだといいます。彼らは、モーセと「争い」(2節、7節)、また、お互いの間でもおそらく混乱と衝突が起こっていたことも想像できます。
 これは、先ほどの主イエスにあった静けさのような平和な状況と比べると、非常に対照的であると言えます。主イエスも独りでいたとはいえ、空腹と渇きをおぼえておられたはずです。人であられたのですから、苦しみを味わわれたことは同じであったはずです。決定的な違いがあるとすれば、それは、試みにある時の、神への信頼ではなかったかと思います。
 もし、自分が身体的に試練にある場合を想像すると、ただでさえ苦しい時に現状のみということでは、内面においても出口がない心境に置かれると思います。しかし、もしそこに、もう一つの道が備えられているということに、私たちの目が開かれているのであれば、希望の光が射し込んでくるのだという、そのことに対する信仰を聖書は伝えているのではないかと思うのです。

 受難節(レント)というのは、「四旬(しじゅん)節」とも言われます。その呼び名の由来は、日曜日を除くと、この期間が約40日からなることにあります。この40という数字は、主イエスが荒れ野の誘惑を過ごされた期間の40日、また、イスラエルの民がエジプトを出て、荒れ野での40年の旅を経て約束の地へたどり着いたということに対応した数です。
 その意味で受難節の期間というのは、私たちも、ある意味ではそれらの聖書の話を辿りながら、ちょうど同じ経験をするようにして、私たちの向き合う試みについて思いめぐらし、さらに、主への信頼を、もう一度深く心に刻んでいく時であると言えます。

 これは、荒れ野の40年ということでよく言及されることだと思いますが、かつて、ドイツの、ヴァイツゼッカー元大統領が、ドイツが戦後40年を迎えた際に、「荒れ野の40年」という演説をしました。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という言葉で有名な演説ですけれども、その冒頭の箇所にも注目されることが多いと思います。それは、次のような言葉です。「心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることであります」(※2)。この、ある出来事について、それを「自らの内面の一部となるよう」にすることであるとの言葉がとても印象的です。
 私たちの置かれた状況においても、先日は、3.11を迎え、11年前に起こったことを、心に深く留めようとしています。それは、あの出来事を、私たちの内面の一部であるかのようにするということだと言えますし、また、ニュースなどで知らされているように、3.11は決して過去のことではなく、今日、生活が一変してしまった状況を生きている人々が多くおられ、それらの方々のことを、より身近に、想像力をもって、あたかも友人や兄弟、姉妹であるかのように考えることにもなると思うのです。

 そして今日また、マルコ福音書を通して、主イエスについての話を聞いた私たちには、あの不思議と気になるような、野獣さえもおだやかであるという様子が目の前に映し出されています。また、「(イエスに)天使たちが仕えていた」(13節)とあるのは、悪しき力が、もはやこの世において効力を失っている状態を意味していると言われています。改めてそう伝えられていることについて、それを私たちの一部であるかのように、内側に刻むように思い描くことの大切さを、今日また示されていると言えるのではないでしょうか。
 それが原風景となり、揺るがぬ「参照点」となるために。というのも、それは、単なる想像ではなく、「御心」という原風景であるからだと言えます。今日起きている状況において、私たちの内に確かな御心がより与えられることにより、私たちはこれからも、この地に対する主の平和の御心を強く願い、また、その御心の一端を担う私たちでありたいと思います。また、今日、試練と思われる状況に向き合っておられるお一人お一人の心と体を、主が御手をもって強くお支えくださいますようにお祈りいたします。

(2022年3月13日 礼拝説教要旨)


(※1)「高校生における「こころの中の風景」が心理臨床の場で果たす役割-原風景と心象風景―」寺本陽子、山本真由美、徳島大学総合科学部人間科学研究 第13巻(2005)35-53。
(※2)『新版/荒れ野の40年~ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー・著、永井 清彦・訳) (岩波ブックレット) ( 2009)p6。